恋と暮らしの物語

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『コーヒーとポストカードと、ある夏の午後』

蝉の声が遠くで揺れていた。真夏の午後、陽射しを避けるように入った古い喫茶店。木の扉が軋む音に続いて、涼しい空気とコーヒーの香りが出迎えてくれた。その日、佳子(よしこ・65歳)は、亡き夫の遺品を整理していて偶然見つけた“束ねられたポストカード...
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📘第10話:また会える、その時まで

引っ越しは、思ったより静かに進んだ。澄子さんがこの街を離れることを決めたのは、数週間前だった。妹さんの住む地方へ移るという。一人暮らしの不安と、体調のことを考えての決断だった。「また戻ってくるかもね」そう言って笑った彼女の笑顔は、いつもと変...
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📘第9話:冬の午後、湯気の向こうに

湯気が、ゆっくりと上がっていた。その日も、寒かった。カーテンの隙間から差し込む光はあったかいのに、床を歩くと、空気の冷たさが膝下にまとわりついてくるようだった。「乾燥してるわね。朝、唇が割れちゃって」澄子さんは、そう言って小さな加湿器のスイ...
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📘第8話:鍵のかかる日記帳

「それ、まだ使ってたんだ」澄子さんが、古びた日記帳をそっとテーブルに置いたとき、私は思わずそう言った。こげ茶色の革表紙に、小さな鍵のついた日記帳。金具がほんのりくすんでいて、手に馴染んでいるようだった。「うん。なんだかんだで、もう二十年くら...
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📘第7話:雨の午後、ふたりのラジオ

ポツポツと、屋根を叩く音がしていた。カーテンを少し開けると、細かな雨粒が、街を淡い灰色に染めていた。「今日は、どこにも行けないね」澄子さんが、少し残念そうに言った。「いいじゃない。こういう日も、悪くない」私は、お湯を注いだポットとカップをテ...
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📘第6話:ひとつの椅子と、ふたつの影

「そこ、いいの?」そう尋ねたのは、澄子さんだった。私はいつものように、リビングの窓際に置かれた椅子に腰をかけていた。「もちろん。ほら、日が当たってあったかいし」私は軽く笑って、手招きした。窓の外では、風が枝を揺らしている。カーテン越しに差し...
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📘第5話:名前を呼ぶ日

「……ねえ、いま私、呼んだのわかってた?」その日、ふたりで歩いた河原の帰り道。信号を渡ったところで、澄子さんがふと立ち止まって聞いてきた。彼女は少し眉を下げながら、私の顔を見つめていた。「え? さっきの話?」「ううん、信号の前よ。三回くらい...
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📘第4話:カーテン越しの風

春一番が吹いた日、澄子さんはくしゃみを五回連続でした。「……花粉、きてるわね」その声は鼻声で、ティッシュを鼻にあてた姿が、なんだか可愛らしかった。私は笑いながら、窓際のカーテンを少し閉めた。やわらかな光がレース越しに差し込んで、ふたりの影を...
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📘第3話:コーヒーと音楽と、あの午後

彼女は、コーヒーを淹れるのが上手だった。「少し酸味のある豆が好きなの」そう言って、小さなミルで豆を挽く。ゴリゴリという音が、静かな午後の部屋に響いた。窓の外では風が梢を揺らし、陽の光がレースのカーテンを透けていた。「今日は少し濃いめにしよう...
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📘第2話:手紙のない手紙

「字が、少し変わったわね」そう言ったのは、澄子さんだった。日曜の午後、駅前のカフェ。読みかけの本を閉じた彼女は、私が書いたメモを指差して微笑んだ。「昔はもう少し、細くて丸かった」私は思わず笑ってしまった。「歳を取ると、筆圧まで変わるんだろう...