― ひとりの時間と、誰かと分け合う日常の意味。
食卓に箸をふたつ並べるとき、ふと感じる温かさがある。
誰かとごはんを食べる、たったそれだけのことが、こんなにも心をやわらげるものだっただろうか。
若い頃は「当たり前」だったことが、年齢を重ねるごとに「ありがたい」に変わっていく。
それはきっと、「ひとりで食べる」という時間を知ったからこそ、感じられることなのかもしれない。
ひとり分の食事は気楽で、自由で、気をつかわずに済む。
けれど、食卓にもうひとつ箸を並べるだけで、その空間には「会話の準備」が生まれる。
「おいしいね」と言える相手がいるだけで、ごはんはただの栄養補給から、心を満たす時間に変わる。
ふたりで食べるということは、味を分け合うだけじゃない。
その日見た風景や、昔話や、黙って過ごす沈黙さえも、そっと共有することだ。
たとえば、朝のパンをかじりながら
「今日は天気が良さそうだね」と言えること。
夕飯のあと、みそ汁の出汁がちょっと濃かったと笑い合えること。
それは、大きな出来事ではなくても、確かな“つながり”を生み出してくれる。
箸を並べる手がもうひとつある日常。
それは、人生が今も誰かと続いている証なのかもしれない。
もちろん、誰もが毎日誰かと食事をできるわけではない。
でも、週に一度でも、月に数回でも、誰かと「食卓を囲む日」があるだけで、ふと心がほどける瞬間が生まれる。
ひとりの食卓に慣れてしまった人も、勇気を出して誰かを誘ってみてほしい。
ご近所の友人でも、家族でも、昔の同僚でもいい。
ふたり分の箸を並べることで、少しだけ世界がやわらかくなることがある。
食卓は、ただの家具じゃない。
人生の出来事が、日々そっと積み重ねられていく場所だ。
今日、誰かと食事をする予定がありますか?
もしなければ、自分のために、ふたつ箸を並べてみてもいい。
空いているもうひとつの席が、未来への扉になることもあるから。
——ふたりで食べるごはんは、心をあたためる最小の祝福だ。