― 見送れなかった別れと、その後に気づいた思い。
あの日、私は「さようなら」と言えなかった。
別れが近づいていることに気づいていながら、言葉を口にできないまま、ただ静かに時間が過ぎていった。
その人は、特別な存在だった。恋人でもなく、家族でもなく、ただ「大切だった人」。だけど、その関係には名前がつかないまま、季節だけがいくつも過ぎていった。
あるとき急に、会えなくなった。
理由は、今思えば些細なすれ違いだったのかもしれない。けれどそのときの私は、余計なプライドや戸惑いを手放せず、素直な言葉を選ぶことができなかった。
「また会える」と思っていたのだ。
人との別れは、いつだって突然なのに。
しばらくして、共通の知人からその人が遠くの街へ引っ越したことを知った。
胸が少しだけ、チクリと痛んだ。
でも、その痛みの理由が「後悔」だと気づくのには、もう少し時間が必要だった。
それから数年後、押し入れの奥から一枚の手紙が出てきた。書きかけの便箋には、「あなたに言いそびれたことがあって」という一文が残されていた。
その筆跡を見た瞬間、心の奥で何かがほどけるような、逆に締めつけられるような感覚があった。
あぁ、あの人もまた、「さようなら」を言えなかったのかもしれない。
それからというもの、別れの場面ではなるべく言葉を口にするようにしている。
「ありがとう」でも「またね」でも、「元気でね」でもいい。
けれど本音を言えば、やっぱり「さようなら」には、なにか特別な意味がある。
それは、もう一度会える保証がないからこそ、伝えるべき最後の敬意であり、感謝であり、祈りのようなものだと思う。
心には、記憶と同じくらい、沈黙も残る。
言わなかった言葉は、いつまでもその人の姿とともに、午後の光の中に影を落としている。
けれどそれは、決して悲しいだけの記憶ではない。
思い出すたびに、「あのとき言えなかったけれど、本当は——」と、少しずつ心のなかで続きを綴ることができるから。
いま隣にいる人に、きちんと「ありがとう」と伝えられる私でいたい。
そしていつか、また誰かとの別れが訪れたときには、あの日の私のように後悔しないように、「さようなら」とちゃんと、言えますように。
——心が覚えていたのは、言葉そのものではなく、「言えなかったことの重み」だった。