「日経平均、前日比マイナス1,200円超えです! 円安、インフレ、地政学リスクが一気に噴出——株式市場に冷や水!」
テレビから流れるアナウンサーの声が、章一の胸にずしんと響いた。
——こんな暴落、久しぶりだ。
スマホの証券アプリには、真っ赤に染まった持ち株たち。 前日まで微増を続けていた銘柄が、まるで急坂を転がる石のように値を落としていく。
「くそっ……」
思わず、つぶやく声が漏れた。
章一は慌てて、いくつかの掲示板や投資系のSNSをチェックする。だが、どこも似たような混乱に包まれていた。
「一気にマイナス20%超え……」 「全部売った。もうやってられん」 「握力負け。退場です」
——握力。耐える力。保持する意志。 章一もまた、その言葉に自問する。
(どうする、オレ?)
画面を見つめるまま、手は冷たく汗ばんでいた。
それは、予兆のあった暴落だった。
数日前から海外市場は不穏で、アメリカの金利上昇と中東の緊張が投資家の心理を冷やしていた。それに加えて、日本国内でも企業決算の不調が続出し、投資家心理は次第に冷え込んでいた。
「売るべきか、持つべきか——」
章一はその夜、ビールの缶を開ける手を止め、ノートパソコンを開いた。
チャートを見つめ、分析を繰り返す。
——持ち続けた優待銘柄はどうだ?
確かに値は下がっているが、業績は安定している。配当の減配もなければ、優待の継続も発表されていた。
(慌てる必要はない。ここで手放したら、それこそ「失敗」だ)
そう言い聞かせながらも、心の奥では冷や汗が滲む。
「なんでオレ、こんな不安定な世界に足突っ込んじまったんだろうな……」
ふと、テレビに目をやると、桜の映像とともに旅番組が流れていた。映っていたのは、数週間前に優待旅行で訪れようとしていた温泉地。
章一は、澄子との笑顔を思い出した。
(そうだ、焦るな。あの温泉、まだ行ってねえじゃねえか)
翌朝、澄子が心配そうに声をかけた。
「昨日、テレビ見てたら“大暴落”って。……大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと下がっただけさ。長く持てば戻るよ」
「……無理、してない?」
「してないって。こんなことで投げ出すなら、最初からやっちゃいない」
そう言いながらも、心は落ち着かなかった。
この一週間で、評価損益はマイナス80万円を超えていた。 定年退職後の貯金と、地道に積み立ててきた分の一部を失ったような感覚。
けれど、それでも売らなかった。
数日後。
銘柄のひとつ、食品メーカーH社が決算を発表した。業績は前年よりやや落ちたが、減配はなく、むしろ優待制度を拡充するとの内容だった。
「なるほど……本当にいい企業ってのは、こういうときに“信頼”を返してくれるんだな」
章一は、ようやく口元を緩めた。
SNSでも、徐々に冷静さを取り戻す声が出てきた。
「握ってて正解だった」 「底値拾いできた人、おめでとう」 「焦って売った人、また次があるさ」
——また、次がある。
その言葉が、章一の胸にすとんと落ちた。
(オレの投資も、また“次”がある)
ある日の夜。
夕食を終えた後、澄子がそっと話しかけてきた。
「あのね……あなたの“株のこと”、少しだけ分かってきた気がするの。 怖いし、不安だし、でも——ちゃんと考えて、選んで、信じて、待つ。 それって、どこか私たちの人生みたいね」
章一は、しばらく黙ってから笑った。
「そうかもな。暴落も、嵐も、人生にはつきもんだ。だけど、その向こうに何があるかを信じて待てるかどうか……それが“投資”ってもんかもな」
その晩、章一はパソコンを閉じ、ひと息ついた。
株価はまだ戻っていない。 でも——心は、前より静かだった。
【章一のメモ】 ・暴落時、売らなかった自分をほめたい ・あのときの恐怖は、経験として刻む ・「見る力」「信じる力」「待つ力」——どれも、簡単じゃない ・投資は、人生そのものかもしれない
そして、五月の末。
暴落から一ヶ月が経ち、株式市場は徐々に回復し始めていた。
章一の保有銘柄も、損失が戻りつつある。完全に元通りではないが、優待も配当も、変わらず届く。
「失わなかったからこそ、今がある」
そう言えることが、何よりの成果だった。
——暴落の向こう側。 そこには、揺るがない“自信”があった。
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