――静かなキッチンが、ふたりの距離を縮めていく。
コンロの上、やかんの中で水がゆっくりと温まっていく。
しゅん、しゅん、とかすかな音を立てながら、湯気が立ちのぼる。
その音だけが響く、小さなキッチン。
「この音、懐かしいですね」
彼が言った。
キッチンの片隅、木製のスツールに腰かけながら、彼はどこか遠くを見るようなまなざしをしていた。
「昔、実家の台所でよく聞いたんです。母が朝ごはんを作る前に、いつもお湯を沸かしていて」
「うちも同じ。あの音を聞くと、なんだか落ち着くんです」
彼とは、最近になって少しずつ距離が近づいていた。
同じ町内に引っ越してきて、ご近所の清掃活動や町内会の集まりで顔を合わせるうちに、自然と会話が増えていった。
彼は60を少し越えたばかり。私はもう少し先にそれを越えている。
今日は、たまたま彼が散歩の帰りに立ち寄っただけだった。
「よければ、お茶でも」と誘ったのは私のほう。
お互い、なんとなくそれを待っていたような気もする。
キッチンの窓から、やわらかな光が差し込んでいる。
木のまな板、レトロな柄のティーカップ、少しだけ欠けた小皿たち。
どれも長く使っているものばかりで、そこには時間の積み重ねがあった。
「お湯、まだかしら」
「まだみたいですね。……でも、この待ってる時間が、案外好きかもしれない」
彼の言葉に、私はふと笑った。
そう、忙しない時代をくぐり抜けてきた今、ようやく味わえる静けさがここにある。
やがて、やかんが「ふぅーっ」と小さく鳴きはじめた。
笛のようなその音が、部屋の空気をゆるやかに変えていく。
私は火を止め、静かに湯を注いだ。
ティーポットの中で茶葉がゆらぎ、しばらくして、部屋の空気が少しだけ、ハーブの香りに変わる。
「どうぞ」
カップを差し出すと、彼は両手で丁寧に受け取った。
「……ありがとう。こういうの、久しぶりです。誰かが入れてくれたお茶を飲むのって」
しばらく、ふたりは言葉を交わさなかった。
カップに口をつけ、息をつき、また口をつける。
ただそれだけの時間が、なぜか心地よかった。
「いつも、どんなふうに一日を過ごしてるんですか?」
「本を読んだり、散歩したり……。あなたと似たような感じじゃないかしら」
「そうかもしれませんね。……だから、また来てもいいですか? このやかんの音を聞きに」
「ええ、もちろん」
答えは、驚くほど自然に出た。
キッチンに差す陽の光が、ゆっくりと傾いていく。
ふたりの間に言葉が少なくても、静かな時間は温かかった。
——やかんが鳴る音を待ちながら、
私は今日、誰かと心を寄せ合えることの静かな喜びを知った。
明日も、またこの音を一緒に聞けたなら。