――想いを伝えられなかった日々と、再会の午後。
古い集合ポストの前に、彼女は立ち尽くしていた。
錆びた取っ手、うすく剥がれた部屋番号のシール。
——それでも、あの頃と同じ場所に、同じようにそれはあった。
もう二十年近くになる。
この町を離れて、別の人生を歩んできたつもりだったのに、
ふとしたきっかけで再びここに戻ってきた。
理由はたったひとつ。
「一通の手紙も、届かなかったポスト」への未練だった。
当時、向かいの部屋に住んでいた“彼”に、彼女はずっと想いを寄せていた。
しかし、想いは言葉にならず、日々だけが静かに過ぎた。
郵便受けを開けるたび、彼のポストに手紙を入れたいと思いながら、
結局、一度もそうすることはなかった。
——彼が引っ越してしまうまでは。
それから月日は流れ、町も変わった。
商店街には見知らぬチェーン店が並び、
あの頃通っていた喫茶店も、今は別のテナントになっていた。
だけど、このアパートのポストだけは、変わっていなかった。
今日ここを訪れたのは、彼女のささやかな儀式だった。
思い出に、きちんと「さようなら」を告げるための。
鞄の中には、小さな白い花束が入っていた。
ポストに入れるのではない。
その前に、そっと置くだけ。
彼に伝えられなかった想い。
それでも、今日で一区切りつけようと決めていた。
花束を取り出し、ポストの前に置こうとしたそのとき。
「……もしかして」
声がした。背後から。
聞き覚えのある、懐かしい、そして少し低くなった声。
振り向くと、そこに彼がいた。
驚いたまま言葉を失っている彼女に、彼はゆっくりと笑った。
「まさか、君じゃないかと思って……。ごめん、声かけてしまって」
どうやら、今日彼もまたこの場所に立ち寄ったのは、たまたまだった。
出張の途中でこの町を通りがかり、少し寄り道をしてみたのだという。
彼は彼で、あの部屋と、このポストを、時々思い出していた。
「これ、君が?」
彼が花束に気づいた。
「うん……、あの頃、何も言えなかったから」
「俺も、言えなかった」
沈黙。
風が、少し強く吹いた。
彼が、ポストのひとつを開けた。空っぽの中に、小さな紙片があった。
それは、彼女が最後の夜にそっと入れたメモだった。
「ずっと、あなたが好きでした」とだけ書いた、たった一行の手紙。
「……引っ越すとき、誰かが入れたのかなと思ってた。まさか、君だったなんて」
彼はその紙を、今も財布に入れていると告げた。
そして、何も言わずに彼女の花を手に取り、
ポストの上に丁寧に置いた。
「どこか、少し歩きませんか」
「……うん」
ふたりは並んで歩きはじめた。
季節は、春の入り口だった。
――あのとき言えなかった言葉は、
今日、ちゃんと心の中で芽吹きはじめた。
もう、手紙は要らなかった。
目の前に、返事があったから。