夏の午後、陽射しがベランダの影をくっきりと伸ばしていた。
団地の五階、窓を少しだけ開けて風を待つ佳代(かよ・65歳)は、麦茶を注ぐ音を聞いた。隣のベランダからだ。透明な音が、静かな時間に波紋のように広がった。
その音をきっかけに、ふと顔を出すと、向かいの部屋の男性と目が合った。男性は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「こんにちは。暑いですね」
「ええ、本当に……」
男性は斉藤(さいとう・66歳)と名乗った。数年前に越してきたというが、顔を合わせることも少なかった。
「よかったら、麦茶、どうですか?」
ベランダ越しに紙コップを差し出され、佳代は笑った。「ベランダ越しにお茶をもらうの、初めてです」
それから、ベランダでの会話が日課になった。昔の夏、子どもたちの声が響いた団地の記憶。今は静かで、少し寂しい。
ある日、斉藤が言った。
「以前、ここに住んでましたよね?」
「ええ。子どもが小さい頃からずっと。でも、何で……?」
斉藤は一枚の写真を取り出した。団地の夏祭りの風景。浴衣姿の少女と、その後ろに立つ若い母親。
「これ、昔もらったんです。娘が写ってて」
その写真に写っていたのは、間違いなく佳代だった。写真を撮っていたのは若い斉藤だった。偶然ではなく、ふたりはずっと前に出会っていたのだ。
「……あのときの、あの影……」
麦茶の音が、再び風に乗って響いた。
忘れていた記憶がゆっくりと浮かび上がり、ふたりの間に静かな灯りをともした。
ベランダに並んだ二つの椅子。その影が、少しずつ近づいていくようだった。