蝉の声が遠くで揺れていた。
真夏の午後、陽射しを避けるように入った古い喫茶店。木の扉が軋む音に続いて、涼しい空気とコーヒーの香りが出迎えてくれた。
その日、佳子(よしこ・65歳)は、亡き夫の遺品を整理していて偶然見つけた“束ねられたポストカード”を手に、懐かしい写真の街を歩いていた。表には旅先の風景、裏には書きかけの文字。そして、差出人の欄には夫の名前があった。
このポストカード、出されなかった理由を知りたい。
そんな想いで訪れたのが、かつて夫とともに通ったこの喫茶店だった。
「……やっぱり、覚えてる人なんていないかしら」
佳子がそう呟いたとき、後ろから声がした。
「そのポストカード、懐かしいな」
振り返ると、そこには年配の男性が立っていた。白髪混じりの髪にカメラバッグ。彼の名は山岸(やまぎし・67歳)。夫の大学時代の親友であり、写真家として活動していた人物だった。
「これ、あなたが撮ったの?」と佳子が尋ねると、山岸は頷いた。
「そう。あいつが君に出すつもりで持ってたやつだ。……出せなかったんだろうな」
二人は、思い出話に花を咲かせながら、アイスコーヒーを飲んだ。山岸は当時の旅の話を、佳子は知らなかった夫の一面を知りながら、何度も笑ったり、目を潤ませたりした。
そして、束の中から一枚のカードを指差し、山岸が言った。
「この場所、もう一度行ってみないか?」
風景写真の宛先は、ある地方の灯台だった。
「……そうね。行ってみたいわ。あなたとなら」
その日、ポストカードはまた“旅を始めた”。今度は、ふたりのために。
(続く物語では、この灯台への小旅行が描かれ、再び出会ったふたりの距離が少しずつ縮まっていく予定です)