朝の光がリビングに差し込む。木の床に映るブラインドの影が、まるでチャートグラフのように見えた。
章一はコーヒーを口にしながら、ノートパソコンを開いた。お気に入りに登録された「IR BANK」「日経電子版」「Yahoo!ファイナンス」「Kabutan(株探)」などのサイトを次々に開き、前日の株価とニュースをチェックする。
——投資が“生活の軸”になりつつある。
かつて、朝の時間は妻の澄子と共にテレビを見て過ごしていたが、今はパソコンの前が章一の“仕事場”だ。
「この歳で“新卒”みたいなもんだな……」
苦笑しながら、四季報を開く。赤線や付箋が貼られたそのページは、分厚くて重いが、なぜか愛着が湧いてきていた。
バイオ株で大損したあと、章一は投資スタイルを大きく見直した。
■方針その1:聞いたことのある企業から選ぶ ■方針その2:配当がある銘柄を優先 ■方針その3:業績が安定して黒字を出している企業のみ ■方針その4:急騰銘柄や仕手株には手を出さない ■方針その5:投資額は総資産の20%以下に抑える
派手さはないが、地に足のついた投資。いわゆる「ディフェンシブ株」や「高配当株」を中心としたポートフォリオに組み替えた。
その中には、長年お世話になった運送業界の大手企業や、電力会社、食品メーカーなどが含まれていた。
「知っている会社なら、なんとなく安心できる」
企業の財務諸表も少しずつ読めるようになった。決算短信を眺めながら、売上高、営業利益、純利益の推移をチェックする。特に、配当性向と自己資本比率には注目した。
——この企業はしっかり内部留保を持っている。 ——売上は横ばいだが、営業利益率は高い。 ——利益剰余金の増加が安定している。
数字を読み解けるようになると、投資はただの「上がるか下がるか」ではなく、「企業の成長と一緒に歩く旅」のように思えてきた。
ある日、そんな章一の元に、ひとつの手紙が届いた。
差出人は、亡き親友・飯田の奥さんからだった。
——先日、飯田の三回忌が無事に終わりました。 ——章一さんには何度も声をかけようと思っていたのですが、結局、最後まで伝えられず申し訳ありません。 ——飯田は退職後、こっそり株をやっていたみたいです。失敗も多かったようですが、それでもノートにコツコツと記録していました。 ——もしよかったら、遺品の中にあったそのノートをお送りします。
数日後、届いたのは一冊の黒い大学ノートだった。
「……飯田、お前もやってたのか」
ページをめくると、日付と企業名、購入価格、売却価格、損益、気づいたこと、なぜその銘柄を買ったのか、どこで間違えたのか。実に細かく記録されていた。
その文字の端々には、若い頃のような飯田の几帳面さと、少しの悔しさ、そして希望がにじんでいた。
——“投資は人生と似ている。成功より、過程に意味がある”
章一は思わず、声に出して笑った。
「まったくだ」
それからというもの、章一はそのノートを“教科書”として読み込み、自分の記録も残すようになった。
エクセルに加え、紙のノートも使う。投資先の企業名、理由、買ったタイミング、ニュースの影響、自分の感情。その時感じた「恐れ」や「期待」を言葉にすることで、自分の癖や判断の偏りが見えてきた。
そして秋が深まる頃、ある銘柄で初めての“配当金”が振り込まれた。
「……七百二十円」
郵便局で受け取った通知を手に、章一は澄子の前で微笑んだ。
「ほら、これ、株の配当金。利息みたいなもんだよ」
「七百円? お昼ご飯にもならないわね」
「いや、これが“入ってくる感覚”ってやつなんだよ。働かずに、お金が……少しだけど」
「ふうん。でも、やっぱり大きな損は出さないでね。私、あのときの顔、忘れてないから」
「わかってるよ。あれはもう、二度とやらない」
澄子は笑いながらも、どこか安心したような顔をしていた。
章一は、今までと少し違う穏やかさの中で投資を続けた。相場が乱高下する日でも、以前のように動揺はしない。
ニュースやSNSの情報にも、以前ほど心を揺さぶられない。代わりに、自分の「軸」を信じるようになっていた。
そして年末、1年間の損益をエクセルでまとめると、驚くべき数字が並んだ。
——損益:+48,600円(税引後)
「……黒字、か……!」
大声を出すほどの額ではない。だが、章一にとっては“人生の赤字”がひとつ、確かに埋まった瞬間だった。
「これなら……まだ、やっていけるかもしれない」
配当と長期保有を軸にした、地味なポートフォリオ。派手なテンバガーはないが、静かに“実り”の匂いがしていた。
再起のポートフォリオは、人生後半の新しい地図だった。
そして章一は、まだ見ぬ未来へと、確かな足取りで進んでいくのだった。
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