60歳からの投資物語 第2章 はじめての損失

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株式投資を始めてからというもの、章一の生活には小さな「熱」が宿った。

毎朝、新聞の株式欄をチェックし、昼間はテレビの経済番組を流しながらチャートを見る。家計簿のように、株の値動きをエクセルに記録し、証券アプリを何度も開いてはニヤリとしたり、眉をひそめたりする。

——初めは順調だった。初めて買った食品会社の株は、購入後すぐに緩やかに上昇し、一週間ほどで千五百円ほどの含み益が出た。

「なんだ、思ったより簡単に増えるんじゃないか」

そんな風に思ったのが、間違いのはじまりだった。

ある晩、章一はYouTubeで「テンバガー候補銘柄」なる動画を見つけた。テンバガー、すなわち10倍株。夢のような話に心がざわついた。

「5万円が50万……いや、10万円が100万になったら……」

気づけば動画を何本も見漁り、スマホには「億トレ」たちの情報発信者がずらりと並んでいた。サラリーマンを辞めて株で生活しているという彼らは、自信たっぷりに「次に来る銘柄」を語っていた。

「今が仕込み時」「来週材料発表がある」「一気に跳ねる」

具体的な企業名が挙がると、つい気になってしまう。章一はそのうちのひとつ、バイオ関連の小型株をチェックし始めた。医療系のベンチャー企業で、赤字続きではあるが、「画期的な新薬を開発中」とのことだった。

不安はあったが、「伸びしろがある」「今が底値」という甘い言葉に背中を押され、章一は思い切って30万円分を購入した。退職金の一部だった。

——翌日、その株は5%ほど上昇した。

「おお、来たか……!」

嬉しさと興奮で手が震えた。だがその翌日、発表されたニュースにより株価は急落。新薬の臨床試験が一次段階で期待した成果を出せなかったのだ。

ストップ安。

証券アプリの画面には、真っ赤な数字が並んでいた。30万円だった評価額が、一気に21万円まで下落。

「……なんだよ、これ……」

パニックになりそうな自分を抑え、何とか冷静さを装おうとしたが、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。YouTubeの配信者たちは何も触れず、新たな銘柄の紹介へと移っていた。

「自己責任だって……そう言ってたよな」

その夜、ビールを飲んでも味がしなかった。澄子には何も言えなかった。いや、言えるはずがなかった。

数日後、バイオ株はさらに下がり、評価額は16万円台へと落ちた。章一はとうとう、震える指で「損切り」のボタンを押した。

——損益:マイナス13万7千円。

「たった数日で、13万も飛ぶのか……」

投資とはこういうものだという現実を、頭では理解していた。しかし、実際に失って初めてわかる「痛み」があった。

その日、章一は一人で駅前の喫茶店に入った。苦いコーヒーをすすりながら、窓の外をぼんやりと眺める。

「これしかないと思ってたけど……俺、甘かったのか」

老後のためにと思って始めた投資が、皮肉にも老後を削る結果になった。焦りと自己嫌悪が胸を満たす。やはり、投資なんて手を出すべきじゃなかったのか——。

「失敗しても、やめなきゃ失敗じゃないって言うけどな」

ふと、隣の席からそんな声が聞こえた。顔を向けると、初老の男性が新聞を読みながらつぶやいていた。眼鏡をかけ、穏やかな口調で話すその男は、章一と同年代か、少し年上にも見えた。

「さっきから見てましたけど……株、やられてます?」

「え? ……まあ、少し」

「俺もだよ。最初はひどかった。退職金半分くらい溶かした」

章一は思わず目を見開いた。

「それでも、今はまあまあ順調。負けるときもあるけど、やめなかった。時間を味方にすれば、いずれ回収できる」

「そんなもんですかね……」

「うん。ただし、焦ったら終わりだよ。早く取り返そうとすると、また失敗する」

「……たしかに」

その男、名を渡辺というらしく、定年後に株を始めてもう7年になるという。いまは週に数回、こうして駅前の喫茶店に来ては、新聞や四季報を読み、分析をしているそうだ。

「銘柄選びは、テレビやネットの言葉に流されないこと。自分で調べて、納得したものだけに手を出す。それだけだよ」

章一は、なぜかほっとした。やっと、地に足のついた言葉に出会えた気がした。

その日から章一は、ひたすら読み始めた。四季報を買い、業績、PER、配当利回りなどの意味を調べ、企業のIR情報を自分の手で確認するようになった。

短期間で儲けようとせず、コツコツと長期目線で投資する——基本に立ち返った。

投資額も絞った。最初は一単元だけ、業績が安定しているインフラや通信、製薬などの大型株を選ぶ。価格が下がっても配当がある企業を中心に、ポートフォリオを組み直した。

「急がない。失った金は取り戻すものじゃない。次は、ちゃんと増やすんだ」

心の中で何度もつぶやいた。

それでも不安はあった。夜、澄子に気づかれないようにパソコンを閉じ、寝室に戻るとき、いつも胸の奥にかすかな後悔の種が残る。それでも、もう後戻りはできなかった。

ある日、少しだけ株価が戻ってきた。数千円の含み益に、章一はじんわりと嬉しさを噛みしめた。

——投資は魔物だ。

——だが、学べば、手なずけることもできる。

バイオ株での失敗は高くついたが、何よりの教訓だった。章一はようやく、「ギャンブルではない投資」の入り口に立てた気がしていた。

そして、自分の人生もまた、ここからが本番なのだと——静かに、そう感じていた。

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