高田章一が、最後の勤務を終えて会社の門を出たとき、あたりはもうすっかり暗くなっていた。三月の冷え込みはまだ厳しく、吐いた息が白く浮かぶ。
四十七年間。高校を出てすぐに運送会社に就職してから、ただの一度も職を変えなかった。トラックの運転手から始まり、係長、課長、そして営業所の副所長にまでなったが、会社の規模も地味で、出世といっても知れたものだった。それでも妻と二人の子を養い、家を買い、ローンを返済し、娘を大学まで出したのだから、悪くない人生だった——はずだった。
会社の仲間が送別の場を設けてくれた。居酒屋の掘りごたつでビールを傾けながら、後輩たちが「章一さんがいなくなるなんて信じられませんよ」と言うのを、どこか遠くの出来事のように聞いていた。
「俺も、明日から何したらいいかわからないけどな」
自嘲気味にそう返したとき、皆が苦笑した。笑いながらも、その誰の目にも、言葉の重みが刺さっているように見えた。やがて乾杯のコールとともにグラスを上げ、店の外に出ると、夜風が肌に冷たく突き刺さった。
電車に揺られながら、章一は窓の外に広がる夜景をぼんやりと眺めた。すべてが普通で、何も変わらないようでいて、自分だけが別の線路に乗ってしまったような感覚にとらわれていた。
翌朝。目が覚めても、会社へ行く必要はなかった。
「あら、もう起きたの? ゆっくり寝てればよかったのに」
台所から妻の澄子の声がする。結婚して四十年、喧嘩もしたが、この人がいたから仕事に打ち込めたとも思っている。
「クセで目が覚めちまってな。今日は何か予定あるか?」
「ないわよ。お祝いがてら、ちょっといいお肉でも買いに行こうかと思ってるけど」
テレビの音が虚しく響く居間。平日の朝、見慣れない情報番組が流れていた。画面には大きく、「老後資金2000万円問題」の文字。
「なあ、澄子。俺たちって、年金だけでやってけるのかな」
「……急に何言い出すの。普通に暮らせば大丈夫でしょ。私たち、贅沢しないし」
章一はうなずいた。だが、その「普通」がわからなかった。これまでは毎月給料が入り、定年後も退職金と企業年金がある程度は出ると聞いていたが、それが一生分としては十分なのか。保険も貯金もあるが、物価は上がり、医療費はどうなるかわからない。
気になった章一は、近くの図書館に出かけた。定年後の生活について書かれた本を何冊か借り、帰宅後に読みふけった。老後破産、下流老人——そんな言葉ばかりが目に入る。
「やっぱり、投資とかも考えなきゃダメか……」
ポツリとつぶやいた言葉に、自分で驚いた。これまで株だの投資信託だのに興味を持ったことなどなかった。ただ、テレビやネットの特集を見ているうちに、興味というより「必要に迫られて」という感覚で頭に残っていた。
翌週、彼は意を決して、駅前の証券会社の窓口に行った。
「口座を作りたいんですが……」
受付の若い女性は丁寧に対応してくれた。証券口座の仕組みや必要な書類、ネット証券との違いなどを聞く。その日は説明だけで終わったが、帰り道でスマホを見ながら、ネット証券のアカウントを自分で作ってしまった。
「なんだ、意外と簡単にできるんだな」
アプリで銘柄が検索でき、チャートがリアルタイムで動く。何か、別世界の扉が開いたような感覚だった。指先一つでお金が増えるかもしれない。それは危険な魅力でもあった。
家に帰り、パソコンを開いて株の入門サイトを読み漁る。PER? PBR? チャート? 移動平均線? 知らない言葉の洪水に溺れそうになる。
——だが、面白い。
「お父さん、最近ずっとパソコン見てるわね。目、疲れない?」
「ちょっと株の勉強してるんだ」
「株!? ギャンブルはやめてよね、うちはそんな余裕ないんだから」
澄子の言葉に、思わず苦笑した。
「大丈夫。ギャンブルじゃない。勉強してからやる」
「勉強しても、結局は自己責任なんでしょ?」
その通りだった。だが、章一にはわかっていた。今さらアルバイトで稼げる額にも限界がある。健康だっていつまで続くかはわからない。だからこそ、自分の頭で考え、判断し、行動するしかなかった。
初めて買ったのは、テレビでもよくCMをしている大手の食品会社の株だった。高配当で、業績も安定しているらしい。1単元だけ——十万円ちょっとの投資だったが、ボタンを押した瞬間、心臓がドキドキしていた。
「……買っちゃったな」
その日から、株価の動きが気になって仕方なくなった。数十円上がるだけで嬉しくなり、下がるとため息が出る。まるで自分の人生がその数字で評価されているような気がしてしまう。
——そうして、高田章一の「老後」が、本当の意味で始まったのだった。
それは「終わり」ではなかった。
人生の幕が引かれたわけではない。
むしろ、自分の力で稼ぎ、自分の選択で生きるという、新たな挑戦のはじまりだった。
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