『夏の音、ひとつぶ』第三章:揺れる想い

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 民宿の窓を開けると、潮の香りが流れ込んできた。日が傾きかけた浜辺には、数人の観光客がサンダルの音を立てて歩いている。誠一は、旅用に持参した通気性のよいサンダルを履いて玄関を出た。ゆっくりと浜へ向かう。

 時間の流れが柔らかくなるような、夏の夕暮れ。彼は軽く汗ばむ額を拭きながら、今日の再会を反芻していた。

 (あの頃、なにか一言でも言えていたら……)

 そう思っても、もう若いふたりではない。誠一も純子も、それぞれの人生を歩き、いくつもの選択を積み重ねて今がある。けれど、それでもまた「話せた」という事実が、どこか心を軽くしていた。

 防波堤に腰を下ろすと、ひとりの影がそっと近づいてきた。

 「ここ、いいかしら?」

 「もちろん。来てくれると思ってたよ」

 純子は麦わら帽子を片手に、風に髪を揺らしながら隣に腰を下ろした。バッグから水筒を取り出し、誠一に手渡す。

 「麦茶、冷えてるわよ」

 「ありがとう。……懐かしいな、この味。家じゃ、もう作らなくなってた」

 「簡単に済ませるようになっちゃうのよね、ひとりだと」

 ふたりは、しばらく黙って海を眺めていた。波が、遠くでさざめく音だけが響く。

 「……さっき、お墓に行ってきたの」

 「お母さんの?」

 「ううん、弟の。ほら、覚えてる? 私より三つ下だった子。高校生のとき事故で……」

 「ああ……あのときの」

 「なんとなく、今日は誰かと話したくて。それで……店を閉めた後、ここまで来たの」

 誠一は、ただうなずいた。胸の奥に、あの時の空気がよみがえる。あの頃、純子は少しだけ暗い表情をしていた。そして、その理由を誰にも言わなかった。

 「ひとりでいるの、慣れてると思ってたけど……本当は、そんなことないのかもしれないって、最近ようやく思うの」

 「僕も、似たようなもんさ。妻が亡くなってから、どうにか平気なふりして過ごしてたけど……夏になると、決まって胸がきゅうっとなってね」

 「それ、たぶん、胸の奥で何かがまだ生きてるから、じゃない?」

 「……生きてる?」

 「うん。思い出とか、気持ちとか。どこかに仕舞い込んだつもりでも、波みたいに時々押し寄せてくるの。優しくて、ちょっと切ないやつ」

 誠一はふっと笑った。

 「純子さん、言葉がきれいだな。今の言い回し、教師だった頃に生徒に聞かせたかったくらいだよ」

 「それはちょっと照れるわね。でも……ありがとう」

 風が、また静かに吹いた。浜辺を歩く親子の姿が遠くに見える。小さな手を握る父親と、はしゃぐ子ども。そんな風景さえ、どこか遠いものに思えてしまうのは、年齢のせいだけではない。

 「今夜、駅前で花火大会があるの。たいした規模じゃないけど、地元の子どもたちが作った短冊が飾られてて、かわいいのよ」

 「へえ、それは……よかったら、一緒に見に行かない?」

 純子は一瞬だけ視線を海に落とし、それからまた誠一を見た。

 「……いいの? 私となんかで」

 「“なんか”じゃないよ。純子さんと、がいいんだ」

 風の音に紛れて、その言葉は波にさらわれていったようにも思えた。だが確かに、純子の頬が少しだけ赤くなったのを、誠一は見逃さなかった。

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