『夏の音、ひとつぶ』第一章:波の向こうに

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 海を見に行こう。

 そう思ったのは、ふとテレビで流れた気象予報士の「今週末、関東南部は絶好の海日和でしょう」という一言がきっかけだった。

 大村誠一は、62歳。定年から2年が経ち、今は週に一度、近所の学童保育で読み聞かせのボランティアをしている。妻に先立たれてからは食卓の向かいが空いたまま、炊飯器には一合分しか米を炊かなくなった。

 それでも最近は、少しずつ生活に慣れてきたつもりだった。洗濯物を干しながらラジオを聴いたり、商店街で店主と世間話をしたり。だが、季節が変わるたびにふと感じる「ぽっかり」としたものは、なぜか拭えない。

 「夏か……今年も来たんだな」

 昔、妻とよく行った海辺の町がある。神奈川の南端、小さな漁港と駅がある静かな場所だ。海水浴客は減り、今では高齢の夫婦や一人旅の人間がのんびりと過ごす、どこか時間の流れがゆっくりな町。

 彼はタンスの奥から、数年前に妻と買った薄手の涼感シャツを取り出した。吸汗速乾、というタグがまだ付いていた。あの日、妻は「誠一、こういうの好きそう」と笑って手渡してくれたのだ。

 翌朝、誠一は早起きし、駅前の売店でポケットサイズの時刻表を買い、電車に乗り込んだ。

 車窓から見える景色は、どこか懐かしい。緑が濃くなった田園風景、海が近づくと潮の香りが窓から忍び込んでくる。手のひらに置いたポータブルラジオから、FM局のパーソナリティが「浜辺の歌」を流していた。

 「今年の夏は、少しやさしい夏になるといいですね」という声に、誠一は微かに頷いた。

 駅に着いたのは昼少し前。暑さはあるが、海風が優しく頬をなでる。かつて訪れた喫茶店はまだあった。木造の小さな建物に、風鈴が揺れている。潮風に溶けるような音色が、彼を迎えた。

 「いらっしゃいませ」

 ドアを開けると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。挽きたてのコーヒー、そしてわずかなミントの香り。かつて妻とこの店の窓辺の席に座り、流れる雲を眺めたことを思い出す。

 空いていた同じ席に腰かけると、誠一はふうと息を吐いた。

 「……ようやく来たよ」

 店の奥から女性店員が現れたとき、誠一は思わず目を細めた。どこか見覚えがある。目元の印象、立ち姿、そしてあの声。

 「……あれ? もしかして、大村くん?」

 声をかけられたその瞬間、時が止まったようだった。

 「あ……高橋さん?」

 高橋純子。高校時代の同級生だった女性の名が、すっと浮かんだ。

 互いに白髪が混じり、声にかすれもある。それでも面影はそのままだった。二人はしばし見つめ合い、微笑み合う。

 窓の外では、夏の波が静かに打ち寄せていた。風が風鈴を揺らし、音を一粒、落としていく。

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