桜の花がようやく五分咲きになったある日曜日、仁は駅前のベンチに座って澄子を待っていた。
午後二時、風はまだ冷たいが、空は明るく晴れていた。
喫茶店「ひだまり」ではなく、公園での待ち合わせ。
二人にとって、これは初めての“デート”だった。
澄子が現れたのは、待ち合わせの五分後。
淡いピンクのスカーフと、白い帽子。春の陽気に合わせた装いだった。
「ごめんなさい、靴の紐が緩んじゃって」
「いえ、こちらこそ。桜、そろそろ見頃ですよ」
二人はゆっくりと、園内を歩き始めた。
途中で澄子が立ち止まった。
「最近ね、こうやって外を歩くのが楽しいんです。万歩計で歩数を見るのが、ちょっとした楽しみになってて」
手にしていたのは、シンプルな画面の歩数計付き活動量計だった。
「へえ、それは便利だ。僕なんか、今日は何歩だっけ……ってすぐ忘れちゃう」
「記録があると、なんだか自分が前に進んでる気がするんです。年をとっても、ね」
仁はその言葉に、思わず微笑んだ。
園内の売店で温かいお茶を買い、ベンチに座ると、澄子がふと鞄の中を探り始めた。
「今日はこれも持ってきました」
出てきたのは、折りたたみ式の二人掛けレジャーシートだった。
「膝が冷えないように、撥水のものを選んだんです。これなら少し長く座っていられますよ」
仁は嬉しそうに手伝いながら広げ、二人で腰を下ろした。
ベンチの横には、小さな野外スピーカーが置かれていた。
「これ、孫からもらったんです。Bluetoothでスマホとつながって、音も意外と良くて」
スピーカーから流れたのは、70年代の懐かしいフォークソング。
「……昔、ラジオで聴いた曲だ」
「そう、私も。歌詞を全部覚えてるのが、ちょっと嬉しかったりして」
ふと、仁が鞄から小さなフォトアルバムを取り出した。
「先日、家を少し片づけていたら、昔の写真が出てきましてね。妻との旅行、息子がまだ小さかったころ……でも、不思議と今、一番誰かと見せ合いたいと思ったのが、あなたでした」
澄子はその言葉に少しだけ目を潤ませ、ゆっくりとアルバムに手を伸ばした。
「ありがとう。私も……あなたに見せたい写真、たくさんあります」
風が一枚の桜の花びらを運び、それがアルバムのページの隙間に落ちた。
二人は顔を見合わせ、そっと笑った。
「また、来週も来ましょうか」
「ええ、“いつもの時間”に」
春風のなかで交わされたその言葉は、まるで小さな約束のようだった。
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