「メダカを通じて、誰かと繋がっている――そんな感覚が、こんなに嬉しいものだったとはな。」
秋の夕暮れ、養殖池の前で水面をぼんやり眺めながら、忠男はつぶやいた。
小さな成功が、少しずつ彼の周囲を変えはじめていた。
ネット販売、講座開催、口コミ。これらの積み重ねは、忠男を“ただの元営業マン”から、“地元のメダカおじさん”へと変えていった。
ある日、町内会の回覧板を受け取りに玄関に出ると、向かいの家の小学三年生・ユウタが話しかけてきた。
「山田さん、ほんとに魚屋さんやってるの?」
「魚屋……いや、メダカを育ててるだけだよ。興味あるか?」
「見せてほしい!」
ユウタとその母親が庭に入ると、忠男は養殖池の前に案内した。
「これが幹之メダカ。光ってるだろ?」
「すげぇ……これ、売ってるの?」
「ネットでも売ってるけど、近所の子には特別にプレゼントしようか。」
「えっ、いいの!? ありがとう山田さん!」
この日を境に、近所の子どもたちが“メダカじいちゃんの庭”にちょくちょく顔を出すようになった。
賑やかになった庭に、美智子も思わず笑った。
「あなた、近所の人気者になってるわよ」
「こんな老後、想像してなかったな……」
するとある日、市役所の地域振興課から一本の電話が入る。
「高齢者の生きがい支援事業として、“趣味の仕事化”を推進したいんです。よろしければモデル事例として紹介させていただけませんか?」
「え? 私が?」
驚いたが、忠男はすぐに了承した。
後日、市の広報誌に【退職後、メダカで第2の人生を楽しむ】というタイトルの記事が掲載され、問い合わせが一気に増えた。
それは、年金生活に不安を抱える多くのシニアにとって、“こんな生き方もあるんだ”と希望を与える記事だった。
その流れで、今度は地元の福祉施設からの依頼が来た。
「うちの施設の利用者向けに、簡単な“メダカ育成体験”をしてもらえませんか?」
「もちろん。こちらからお伺いしましょう。」
忠男は、自宅のプラ舟から健康なメダカを数匹選び、小型の飼育セットを持参して施設を訪問した。
認知症を患っているお年寄りが、水槽の中の小さな魚をじっと見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「これ……昔、うちの庭にもいたわ……」
その言葉を聞いた瞬間、忠男の胸の奥に温かい何かが込み上げた。
「メダカって、思い出も運んでくれるんだな……」
メダカが人の心を癒やす力を持っていることを、初めて実感した瞬間だった。
そして、忠男は決意する。
「よし、“地域メダカプロジェクト”って名前で、もっと多くの人にメダカの魅力を届けよう。」
そのために、地域の公民館に相談し、定期的なメダカ教室と無料配布会を開催することになった。参加費は無料。必要なのは、来る人の“興味”だけ。
第一回の教室には、シニア層から若い夫婦、小学生まで、20名以上が集まった。
「はじめまして、山田と申します。メダカのことなら、少しだけ詳しいです。」
会場の空気が和やかに変わった。
講座の中で忠男はこう語った。
「定年退職したときは、正直なところ、不安でいっぱいでした。
何をやっても失敗ばかり。でも……この小さな魚たちが、私の毎日を変えてくれました。
メダカは小さいけれど、その命は力強い。育てることで、自分も生き返るような気がするんです。」
その言葉に、参加者の何人かが目頭を押さえていた。
会場の片隅で、美智子が微笑んで見守っていた。
講座後、数人の参加者が忠男のもとに来て、こう言った。
「私も、やってみたいと思います」
「一匹だけでも、育ててみようかな」
「娘と一緒にやります!」
忠男は、ひとつひとつの声に深くうなずきながら、丁寧に育て方を教え、数匹ずつメダカを手渡していった。
その夜、家に戻ってきた忠男は、メモ帳に大きくこう書いた。
「生きがいは、自分の中にある」
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