即売会からの帰り道、忠男の胸の内には、久しく感じたことのなかった高揚感があった。
「久々に、人に“ありがとう”って言われたな……」
単なる物売りではない、自分が育てた命が、誰かの家で大切にされる。その実感が、何よりも嬉しかった。営業マン時代に感じた「数字に追われる成果」ではなく、目の前の人と繋がることの温かさが、忠男の心をじわりと満たしていった。
自宅に戻ると、妻の美智子が笑顔で迎えた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「売れた。思ったよりも、ずっと売れたよ。」
「それはすごいじゃない!……よかったね、あなた。」
美智子のその言葉は、これまでの失敗でこわばっていた忠男の心を、すっとほどいた。
次の一手として、忠男はネット販売に挑戦することにした。若い頃からパソコンは不得意だったが、今では「学ぶしかない」と割り切れるようになっていた。動画でホームページ作成の方法を調べ、シンプルなサイトを立ち上げる。
タイトルは――
「やまだメダカ園」。
写真はすべて自分で撮影した。朝の光でキラキラと輝く幹之メダカの群れを、何十枚も撮って選び抜いた。
「写真が命だな、これは。」
営業マン時代に商品パンフレットを作っていた経験が、こんなところで役立つとは思いもしなかった。コピーライティングも、過去の資料を参考にして、「初心者向け」「丈夫で育てやすい」「繁殖可能」などのキーワードを盛り込んだ。
そして、販売を開始して1週間ほどした頃、小さな奇跡が起きた。
一通のメールが届いた。
「初めてメダカを飼おうと思い、検索してこちらのサイトにたどり着きました。写真がとてもきれいで、説明も分かりやすかったです。購入させていただきました!」
初めての注文だった。忠男は手を震わせながら、丁寧に箱詰めし、保冷材を入れてメダカを発送した。無事に届いたのか、気が気でなかったが、数日後、再びメールが来た。
「元気に泳いでいます!また他の種類も欲しいと思っています。」
忠男はしばらくそのメールを眺めたまま、何も言えなかった。言葉にできないほどの嬉しさだった。
それから、少しずつ注文が入るようになった。大きな数ではないが、**「人と繋がる実感」**があった。それが何よりも大きな原動力になった。
ある日、地元の市民センターから講座の依頼が舞い込んだ。
「中高年向けのメダカ飼育講座を開催したいのですが、先生をお願いできませんか?」
忠男は最初戸惑ったが、やってみようと決めた。
10人ほどの参加者を前に、メダカの魅力や育て方を語る。皆、目を輝かせながら質問を投げかけてくる。
「どうやって増やすんですか?」
「どんな容器がいいんですか?」
「冬はどうしたらいいの?」
かつての営業トークとは違う、「誰かの人生に寄り添う話」が、忠男には心地よかった。
その講座をきっかけに、受講者がサイトにアクセスし、メダカを購入する人も現れた。少しずつ、口コミが広がっていった。
収入としては、まだ大きなものではなかった。だが、忠男にとって、それは「金額」ではなく、「確かな反応」があることが何よりの意味を持っていた。
「もう、焦らなくてもいいんだな……」
数年前、ネットショップや釣りツアーで焦りと不安に押しつぶされていた頃の自分とは、まるで別人だった。
今は、心から楽しみ、丁寧に取り組める仕事がある。小さな成功かもしれない。だが、確かに**“自分の手で作った成功”**だった。
庭の養殖池を覗くと、稚魚たちが元気に泳いでいた。
「また、少しずつ増やしていこうか」
忠男はポケットからメモ帳を取り出し、次に育てたい品種の候補を書き留めた。
・紅帝
・黒ラメ体外光
・アルビノ幹之
「目指せ10品種。夢じゃない。」
その夜、忠男は久しぶりに深い眠りについた。
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