忠男は、自分の人生がどこに向かっているのか分からないまま日々を過ごしていた。失敗続きの起業に疲れ果て、心の中で一度「何もしたくない」という気持ちが膨らみつつあった。しかし、何もせずに家でじっとしているわけにもいかない。だからこそ、釣りに行ったり、少しでも他のことに興味を持とうと、無理にでも外に出ようとした。
そんなある日、近所の園芸店で何気なく足を止めた時、目の前に透明な水槽が並んでいるのに気がついた。水槽の中には、様々な種類の小さな魚が泳いでいるが、何よりもその中で特に目を引いたのは、青や赤、白、オレンジの色とりどりのメダカだった。
「メダカか…懐かしいな」
忠男は思わず呟いた。メダカは、子どものころ、実家で飼っていたことがあった。小さな水槽に小さな魚が泳ぐ姿を眺めているだけで、時間がゆっくり流れるような気がしたのを覚えている。そういえば、父親もメダカを育てていたことを思い出した。庭にある小さな池で、毎年メダカの卵を孵化させては、小さな命を育てていた。
「懐かしいな…」
忠男はしばらく水槽を眺めていた。すると、店主が声をかけてきた。
「おや、メダカに興味があるんですか?」
「ええ、昔、うちでも飼っていたんですよ。でも、今はあまり見かけないですね。」
「そうですね、最近はメダカの飼育がブームになってきているんですよ。特に観賞用としての人気が高まっています。色んな種類のメダカがいるので、選ぶのも楽しいんです。」
店主はメダカの種類や飼育方法について熱心に話してくれた。忠男は、その話を聞きながら、メダカという魚が、今でも多くの人々に愛されていることを改めて感じた。
「もし、メダカを育ててみたいのであれば、手軽に飼える水槽セットもありますし、品種改良されたメダカもたくさんありますよ。飼い始めるのも簡単で、意外と面白いんです。」
店主の言葉に、忠男の心の中で何かが弾けたような気がした。自分もメダカを育ててみたらどうだろうか? もちろん、ただ飼うだけではなく、少しずつ増やして、メダカの繁殖や販売に挑戦してみても面白いのではないかと思った。
その晩、家に帰ると、忠男は妻の美智子にその話をした。
「今日は、近所の園芸店でメダカを見かけて、ちょっと心が動いたんだ。あの頃を思い出して、飼ってみようかなって。」
美智子はしばらく黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「それ、いいんじゃない? あなたが楽しめることをしてみたら、少しは気分も変わるかもしれないわよ。」
「でも、ただ飼うだけじゃつまらない。メダカの繁殖に挑戦して、何か仕事にできたら、という考えもあるんだ。」
美智子は少し考えた後、微笑んで言った。
「それなら、やってみたら? 失敗したらその時考えればいいし。あなたがやりたいことをやってみることが大事だと思うわ。」
その言葉に背中を押された忠男は、次の日、早速園芸店に足を運び、メダカの飼育セットを購入した。初めてのメダカ飼育は、思ったよりもシンプルで、必要な道具も揃えてしまえば、すぐにでも始められそうだった。
水槽に水を入れ、フィルターをセットし、エサや水温管理の方法をネットで調べながら、慎重に準備を進めた。メダカを飼うことに決めた忠男は、その日から毎日水槽を眺めることが習慣となった。
数週間が経つと、メダカたちは元気に泳ぎ始め、卵を産むようになった。忠男はその成長を見守ることが、これまでのどんな仕事にも代えがたいほどの安らぎをもたらすことに気づく。メダカたちの小さな命が日々成長していくのを見守ることが、彼にとって何よりも大切な時間となった。
そして、ふと頭をよぎる思いがあった。それは、メダカの繁殖をさらに進め、販売することができるのではないかということだった。まるで、仕事のようにメダカを育てることが、次第に彼の新たな夢へと変わっていく予感がした。
忠男は、再び一歩踏み出す覚悟を決める。そして、もう一度だけ、自分の力で何かを成し遂げるために、メダカの養殖という新たな挑戦を始めるのだった。
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