山田忠男(やまだ ただお)、60歳。
その男は、ずっと倉庫業界の営業マンとして生きてきた。東京近郊の物流拠点で、40年間、倉庫を管理する仕事をしてきた。朝早くから夜遅くまで、貨物がスムーズに流れるように手を尽くし、仲間たちと連携し、納期に追われては汗を流してきた。数字と納期に追われ、日々の業務に終われる中、すっかり年齢を重ねたが、忠男はそれに疑問を持つこともなかった。
「それが、男の仕事だろう?」
常にそう思いながら、家庭のことも後回しにし、趣味や自由な時間を持つことはなかった。
定年退職を迎えたその日、忠男は少し複雑な気持ちで社内の机を片付けていた。今、目の前に広がるのは、一緒に仕事をしてきた仲間たちの笑顔や励ましの言葉。しかし、退職の日を迎えても、どこか空虚な気持ちが漂っていた。
「これで、本当に終わりなのか?」
忠男は机の引き出しを開け、そこに残っている最後の資料を整理しながら、ふと過去を振り返った。若かりし頃、仕事の合間を縫ってよく行っていた釣りのことを思い出す。あの頃は何もかも忘れて、魚との戦いに熱中したものだった。
「そうだ、釣りをしよう。」
これまで忙しさにかまけて、忘れていた自分の好きなこと。それが釣りだった。だが、退職を迎えても、次に何をしようかと悩んでいる自分がいた。生活費をどう確保するか、社会との接点をどう作るか、未知の未来に不安を抱えたままだった。
「まずは釣りをしてみるか」と忠男は思った。おそらく、長年の営業生活を振り返って、気持ちが少しでも楽になればと思っていたのだろう。
退職後、最初にやったことは、自分の手元にあった古びた釣り竿を引っ張り出して、近くの湖に向かったことだった。日が沈みかけた秋の風景の中、忠男は釣りを楽しんだ。しかし、釣り糸を垂れたまま、他のことが頭に浮かんできた。どうしても生活のこと、将来のことを考えてしまう。
「もう一度、何かを始めなければならない。」
その思いが、忠男の心に深く根を下ろすことになる。
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