朝の光が、カーテン越しにやわらかく部屋を満たしていた。誠一は窓を開け、ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
机の上には、昨日まで書き続けていた原稿が積み重なっている。そこには、長年しまい込んできた想いが言葉として形を持ち始めていた。
誠一はゆっくりと椅子に腰を下ろし、ペンを手に取った。
——書くことが、自分の人生の続きを照らしてくれるとは、思っていなかった。
ふとスマートフォンが鳴った。
《涼子:おはよう。朝の声、届きましたか?私は今日、朗読会の申し込みをしてきます》
そのメッセージに、自然と頬が緩んだ。
ふたりで交わした「書いて、読んでもらう」という約束が、いま現実の一歩となって動き始めている。
誠一は原稿用紙を一枚抜き、新しい物語の一文を記し始めた。
「ある朝、過去を抱えた男は、新しい一歩を踏み出す決意をした——」
その言葉が、ゆっくりと紙に染み込んでいく。
正午前、誠一は一冊のノートとともに家を出た。
行き先は、市民センターの一室。涼子が参加するという朗読会の会場だった。
小さな部屋には、十数人の参加者が集まり、それぞれの物語を語り合っていた。
涼子が席に着く誠一を見つけて、小さく手を振った。
その後、彼女は前に立ち、マイクに向かって誠一の原稿を読み始めた。
その声は、はっきりと、そして丁寧に、一語一語を大切に届けていた。
——まるで、自分の中に眠っていた言葉が、他者の声を借りて生まれ変わっていくようだった。
朗読が終わると、小さな拍手が起こった。誠一はその音に、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
帰り道、ふたりは並んで歩いた。
「また、書いてくれる?」
「うん。今度は、誰かのためにじゃなく、自分のために書いてみたい」
「それが、きっと誰かの心にも届くのよ」
春の光が差し込む並木道を、ゆっくりと歩いていくふたり。
再出発の朝は、かつての痛みも優しさに変えながら、静かに始まっていた。
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