晴れた土曜の午後。風は少し冷たいが、陽の光はやさしく、街の緑をふんわりと包んでいた。
誠一は古い木製の引き出しを開けていた。長年手をつけていなかった書斎の棚。そこには、退職後もしまい込んだままの古い資料やノート、そして一冊のアルバムが眠っていた。
アルバムの中には、若かりし日、新聞社に勤めていた頃の写真。地方を取材して回ったときの風景や、人々の笑顔、そして——家族の記録。
「……懐かしいな」
小さな声でつぶやきながら、ページをめくる。
そこには、亡き妻との旅行の記録や、娘が幼い頃の誕生日の写真があった。どの一枚も、時の流れの中で色褪せていたが、胸に刺さる感情は鮮やかだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
《涼子:今日はよければ、うちでゆっくりしませんか?前に話してた昔の写真も見てみたいなって》
思わず微笑がこぼれる。今この瞬間、誰かと何かを共有したいと思えることが、少し不思議で、そして嬉しかった。
「よし、持っていくか」
誠一はアルバムをバッグに入れ、ふと手が止まった。
もう一つ、奥の引き出しに眠っていた古い封筒。そこには、かつて書いた小説の草稿があった。三十代の頃、書くことに夢中になっていた時期。だが発表する勇気もなかった。
涼子のもとへ向かう道すがら、その封筒の重みを感じていた。思い出という名の荷物。それを誰かに見せるのは、覚悟がいる。
しかしその日、涼子の家に入ると、不思議な安心感に包まれた。
「来てくれて、ありがとう」
涼子は穏やかに笑いながら、手作りのケーキを勧めてくれた。テーブルの上には花柄のティーカップと、柔らかな紅茶の香り。
二人はアルバムを開きながら、あれこれと話した。誠一が記憶の奥に仕舞っていたエピソードに、涼子は優しく相槌を打った。
やがて誠一は、意を決してあの封筒を取り出した。
「実は……昔、こんなものを書いてたんだ。誰にも見せたことはないけど」
涼子はゆっくりとそれを手に取り、ページをめくった。
黙読する時間が流れる。時折、唇がほころび、小さな「ふふ」と笑う声が漏れる。
読み終えたあと、涼子は目を上げて言った。
「とても誠実で、静かに心を打つ文章ね。あなたが書いたの?」
「まあ……若気の至りというやつさ」
そう言って照れる誠一に、涼子は目を細めた。
「私は、こういう文章好きよ。心の奥の引き出しを、そっと開けてもらえた気がする」
その言葉に、誠一は深く頷いた。
過去を共有することで、現在がより豊かになる。
この日、ふたりの間に流れた沈黙は、やさしくて、あたたかかった。
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