昼過ぎ、涼子は縁側で静かにお茶をすすっていた。雨は上がったものの、まだ空は鈍いグレーを引きずっている。
誠一と出かけた市場の余韻は、まだ彼女の中に温かく残っていた。しかし、それと同時に、小さな違和感も芽を出していた。
(私ばかり、頼っているのではないかしら……)
年を重ねても、人間関係の距離感というものは難しい。とくに、配偶者を亡くして以降、誰かと深く関わることに慎重になっていた。自分が心を開けば、相手も応えてくれる。だがそれは時に、重荷になることもある――そんな不安が、胸の奥に巣食っていた。
「ちょっと歩いてこようかしら」
雨の上がった庭には、昨日誠一からもらったアジサイの鉢が涼しげに咲いていた。足元を確認しながらサンダルを履き、傘を片手に外へ出た。
一方その頃、誠一は町内の老人会館で、来月開催予定の夏祭りの打ち合わせに出ていた。役員を頼まれて断れずにいたのだが、最近では人付き合いも悪くないと感じていた。
「誠一さん、こないだの展示会の記事、すごくよかったですよ」
「え? ああ、あれは……」
小さな町のフリーペーパーに載せた、地域の陶芸作家についての記事だ。昔取材慣れしていたせいか、自然にペンが進んだ。退職後も書くことがこんな形で活きるとは思わなかった。
誠一はふと、涼子のことを思い出した。あの人にも一度、自分の文章を読んでもらいたいと思ったことがある。だがそれをどう切り出せばいいか、わからずにいる自分がいた。
「……まあ、次回も何か書ければ」
会館を出たのは午後三時過ぎ。曇り空の下、涼子に連絡を取ろうかとスマホを手にしたとき、一通のメッセージが届いた。
「今日はありがとう。でも少し、ひとりでいたい気分です」
短く、それだけだった。
誠一は眉をひそめた。なぜ? 昨日まではあんなに自然に話していたはずなのに。こちらが何か悪いことをしたのだろうか……。そう思いながら、返信はできなかった。
その頃、涼子は町の小さな図書館のカフェで、本を手にしていた。
読み慣れたエッセイの一節が、妙に胸に刺さった。
「孤独とは、誰かの気配を感じるときほど強くなる」
まさに今の自分がそうだった。誰かと繋がっていることで、不安になる。たったひと言、言葉を交わせばほぐれるものを、自分で距離を作ってしまっている。
「困ったものね……」
つぶやき、カップの紅茶を飲み干した。誠一に送ったメッセージのことが気になっていた。
何かを期待されたような気がして、それに応えられない自分が嫌だったのだ。けれど、誠一はそんなことを口にしたわけでもない。ただ優しくしてくれただけだった。
夕方になり、涼子は自宅に戻った。ドアを開けると、玄関先に何か置かれていた。
紙袋とメモ。
「この前話してた、あなたの好きなパンがあったので。
たいしたものじゃないけど、良かったら。
― 誠一」
ふわりと甘い香りが袋から立ちのぼる。地元のパン屋でしか売っていない、昔懐かしい豆パンだった。
涼子は袋を胸に抱え、縁側に腰を下ろした。夕暮れの空が、ようやく青みを取り戻していた。
手元のスマートフォンに視線を落とす。迷った末、短くメッセージを送った。
「パン、ありがとう。明日、うちでお茶でもどうですか?」
すぐに返事が来た。
「楽しみにしています」
その一言で、涼子の胸にあったもやが、すっと晴れていくのがわかった。
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