六月の空は、朝から厚い雲に覆われていた。雨が降るでもなく、ただじっとりと重たい空気が町を包んでいる。
涼子は、朝から気分が晴れなかった。
昨夜、東京にいる娘から久しぶりに電話があったのだ。孫が夏休みに遊びに来たいという話から、ふと話題が変わり、「お母さん、一人で大丈夫? 今後のこと、そろそろ考えた方がいいかも」と言われた。
一人で暮らすことの不安。将来のこと。娘の心配もわかるが、涼子にとっては「ここでの暮らしが、ようやく落ち着いたばかり」だった。
ふと、誠一のことを思い出す。
彼はどこか安心できる存在だ。だが、だからこそ、頼りすぎてはいけない――そんな思いが、時折胸に差す。
誠一のほうもまた、朝からそわそわしていた。
この日、古くからの友人・伊藤が東京から遊びに来ることになっていた。誠一と同じくリタイア後の生活を始めたばかりの男で、かつては同じ広告代理店で働いていた仲だ。
午後、二人は駅前の喫茶店で落ち合った。伊藤は変わらぬ皮肉屋で、すぐに昔話に花が咲いた。
「それで? 最近の暮らしはどうなんだ? 誰か、良い人でもできたか?」
唐突な問いに、誠一はグラスの水をひと口飲んでから答えた。
「……いや、まあ。近くに、昔の知り合いがいる。今はただ、気持ちのいい距離感で過ごしてる。」
「そうか。でもな、誠。そういう時間は、案外もろいぞ。お互い、年を取ればなおさらだ。」
誠一は笑ってごまかしたが、内心では伊藤の言葉がずしりと残った。
その夜、誠一は涼子に電話をかけた。
「明日、久しぶりに市場に行こうと思うんだ。一緒に行かないか?」
涼子は少し戸惑ったが、声を聞いているうちに気持ちがほぐれ、うなずいた。
「ええ、いいわ。魚、見たいし。」
翌日、二人は並んで市場を歩いた。人混みにまぎれながら、どこか遠慮がちな歩調で、言葉を探していた。
涼子は、ふと小さな花屋の店先で足を止めた。店先に並ぶ、色とりどりのアジサイの鉢植え。その中に、淡いブルーの一鉢があった。
「きれいね。こういう色、昔好きだったの。」
誠一は何も言わず、その鉢植えを手に取った。
帰り道、涼子は誠一の車の助手席で静かに言った。
「ねえ、私……少しだけ、怖いの。何かが、壊れてしまいそうで。」
誠一は運転席のハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと答えた。
「壊さないさ。時間をかけて、ゆっくり育てよう。花みたいにな。」
二人の間に、ようやく静かな風が吹いた。
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