風鈴の音が、涼しげに軒先で揺れていた。
誠一の家は、昔ながらの木造平屋。庭先には紫陽花が色づき始め、初夏の訪れを静かに告げていた。
「今日は、いい風ね。」
縁側に腰かけた涼子が、冷えた麦茶をすすりながら呟いた。誠一はうなずき、テーブルに置かれたラジオに手を伸ばす。
ラジオからは、懐かしいフォークソングが流れていた。二人とも口ずさみはしなかったが、耳に馴染むその旋律が、かつての時間をそっと呼び起こしていた。
「都会では、音って溢れかえってるのよ。車の音、人の話し声、携帯の着信……。でもここは、静か。」
「それがいいんだよ。風の音とか、雨の匂いとか、ちゃんと感じられる。」
涼子は、誠一の横顔を見つめた。年輪の刻まれたその顔に、昔の面影を感じながらも、今を生きる大人の余裕を感じる。彼女の心は、ほんの少しだけ穏やかになった。
とはいえ、互いの暮らしにはそれぞれの課題がある。
涼子は、古い実家を一人で管理している。風通しの良い立派な日本家屋だが、家事は思った以上に手がかかる。最近では、掃除や片付けも億劫になってきた。
一方の誠一も、腰を痛めてから庭仕事がつらくなった。かつては趣味だった家庭菜園も、今では最小限に抑えている。
「でもね、こうしてると、生きてるって思えるの。忙しいんじゃなくて、穏やかな日常。」
涼子はそう言って笑った。その表情には、若い頃にはなかった柔らかさがあった。
ある日の午後。涼子は、自宅の書斎で昔の日記を読み返していた。30代のころのページに、誠一の名前がちらりと登場していた。
《川村誠一くんの話を今日、久しぶりに思い出した。なんとなく、声を聞きたくなった。》
それは、偶然ではない。彼の存在は、人生のどこかに静かに棲み続けていたのだ。
同じころ、誠一もまた、涼子の写真を整理していた。高校時代の集合写真。制服の涼子が、ほんのりと微笑んでいる。
「……変わらないな。」
ぽつりとつぶやき、写真を封筒にしまう。その手元には、通販で取り寄せた健康器具の箱が置かれていた。涼子に勧められたストレッチバンドだった。
夜。涼子はラジオの音を聞きながらベッドに入った。誠一はそのころ、簡単な筋トレを終えてシャワーを浴びていた。
二人は別々の場所にいながら、同じように「今」を暮らしていた。
そして、心のどこかに「これから」を想っていた。
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