金木犀が香るころ、名前を呼ばれた

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― 秋風に乗せて届いたのは、遠い日の約束。

 

その日、公園の入り口に立った瞬間、ふわりと懐かしい香りが鼻先をくすぐった。

金木犀。

甘くて、どこか切ない香り。

それを嗅ぐと、決まって思い出す名前があった。

そして、思い出す声があった。

 

ベンチに腰を下ろすと、風がさらりと頬を撫でた。

落ち葉がカサカサと足元で鳴り、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえる。

秋という季節は、やさしくもあり、寂しくもある。

彼女はコートの襟を指でつまみながら、目を細めた。

 

——

 

名前を呼ばれたのは、あの秋だった。

高校の帰り道、金木犀が咲き始めた校門前。

「由美子」

そう呼ばれたとき、彼女は驚いて振り返った。

クラスメイトの村瀬くん。

いつも本を読んでいて、誰かと話している姿をあまり見なかった彼。

その彼が、自分の名前を呼んだ。

 

「……今日、少しだけ、時間ありますか」

秋の夕方、部活もない日。

断る理由もなかった。

 

ふたりで歩いた通学路は、なんでもない道のはずなのに、その日は風景が違って見えた。

 

「卒業したら、離れるから。……今、話しておきたくて」

 

彼が口にしたのは、告白というには照れくさく、でも確かに真っ直ぐな言葉だった。

「ずっと、好きでした」

彼女は何も言えなかった。

ただ、金木犀の香りのなかで、彼の横顔を見つめていた。

 

——

 

それから月日は流れた。

彼は卒業と同時に遠くの大学へ進み、そのまま東京で働くようになったと人づてに聞いた。

一度も連絡をとることはなかった。

返事をしないまま、大人になってしまった。

 

けれど、金木犀の香りだけは、毎年ふいに思い出させる。

あのとき、自分の名前をまっすぐ呼んだ、あの声を。

 

「由美子さん……ですよね?」

突然、声がした。

 

振り返ると、そこに立っていたのは——

「……村瀬くん?」

 

眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなって笑った。

昔より少し背が縮んだ気がする。でも、それはお互いさまだろう。

 

「まさか、ここで会えるなんて」

「私こそ……びっくり」

 

彼は懐かしそうに周囲を見渡した。

「まだ、金木犀の香りがするんですね」

「ええ、毎年ここに来るんです」

 

ふたりは並んでベンチに座った。

風が、また金木犀の香りを運んでくる。

 

「この季節になると、あなたの名前を思い出してたんです」

彼が、ふと、つぶやいた。

 

由美子は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

ずっと言えなかった言葉を、今なら言えるかもしれない。

 

「……あのとき、返事をしなかったの。ずっと気になってた」

 

「気にしてませんでしたよ。むしろ、あの香りと一緒に思い出せるだけで、嬉しかったから」

 

金木犀の花が、一輪、ふたりの間に落ちた。

彼女はそれを拾って、そっと指先で包んだ。

 

「じゃあ、今言ってもいいですか?」

「え?」

 

「……あのとき、私も、少し嬉しかったって」

 

村瀬は、しばらくの間、何も言わなかった。

ただ、そっと頷いた。

 

それだけで、充分だった。

 

遠い日の約束は、今ようやく、秋風に乗って届いたのかもしれない。

 

ベンチの影がふたり分、重なっていく。

金木犀の香りの中で、ふたりはまた、同じ季節を過ごそうとしていた。

 

——
もう返事は遅くない。
秋は、過去と未来がふわりと重なる時間なのだ。