縁側に置かれたふたつの湯呑み

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――交わされなかった言葉が、午後の陽だまりに滲む。

 

陽だまりの縁側に、ふたつの湯呑みが置かれている。
白い磁器に淡い青で描かれた椿の絵柄は、少し色あせていた。
そのうちのひとつには、湯気がまだ立っていた。

 

「もう少し、早く気づけばよかったんですけどね」

彼はそう言いながら、湯呑みに目を落とした。
隣に座る彼女は、静かに頷く。
言葉は交わさなくても、想いがそこにあるとわかるような午後だった。

 

ふたりが初めて出会ったのは、近所の公民館だった。
陶芸のワークショップで、湯呑みを一緒に作るグループになったのがきっかけだった。

「私は絵付けが苦手なんです」
彼女はそう言って、笑った。

「じゃあ、僕が描きますよ。代わりに、あなたは形を整えて」

何気ないやりとりだったが、そのときすでに、ふたりの時間は動き始めていたのかもしれない。

 

完成した湯呑みは、どこか不恰好で、それでもぬくもりがあった。
白地に描かれた椿の花は、彼が慎重に筆を走らせたものだった。
彼女が仕上げたかたちは、指の跡が残るほどにやさしくて、丸かった。

 

「これで、お茶でも飲みましょうね」

そう言って笑った彼女の横顔を、彼は今でも覚えている。

 

——

 

それから何度か、ふたりはお茶を飲むようになった。
週に一度か、ふた週に一度か。
特別なことは話さなかったが、不思議と心が落ち着いた。

けれど、互いに距離を詰めることもなく、
“友人”という名のまま、季節はゆっくりと巡っていった。

 

ある日、彼女が言った。

「もしも、もう少し若かったら……」

その続きを彼は聞けなかった。
聞くのが怖かったのかもしれない。
あるいは、わかっていながら、知らないふりをしたかったのかもしれない。

 

その日を境に、彼女は姿を見せなくなった。
体調を崩したと、人づてに聞いた。
しばらくして退院したとき、彼は縁側に椿の湯呑みをふたつ並べた。

一つは、自分用。
もう一つは、彼女の分。

 

「この湯呑みを見るたびに、あなたの言葉を思い出します」

彼はそうつぶやいて、口をつけた。
少し冷めたお茶は、やけに静かな味がした。

 

そして今日、久しぶりに彼女が訪れた。
痩せた肩にストールをかけ、手にはあの日と同じ湯呑みを下げて。

 

「やっぱり、ここにあると思ってた」

彼女はそう言って、縁側に腰を下ろした。

 

「まだ…続き、聞いてもいいですか」

「え?」

「あの日の言葉。“もしも、もう少し若かったら”って。……続きがあったでしょう?」

 

しばらくの沈黙のあと、彼女はそっと笑った。

「……“きっと、好きだって言えたのに”って、続けるつもりでした」

彼は湯呑みに目をやり、そしてゆっくりと息をついた。

「だったら僕も、続きがあります。“今からでも、遅くないなら”って」

 

ふたりは湯呑みを手に取り、ゆっくりと口をつけた。
そのあいだにある静けさは、もう寂しさではなかった。

 

陽が傾き、縁側の影がふたりを包み込む。
交わされなかった言葉たちが、今日やっと、あたたかな音を立ててほどけていく。

 

——椿の絵柄が並ぶふたつの湯呑み。
それは、過去と未来をつなぐ「答え合わせ」だった。