― 風に誘われて歩いた午後が、ふたりの始まりに。
その日、風がよく通る午後だった。
公園の木々はやさしく揺れ、ベンチに座る彼のシャツもふわりと膨らんだ。
白いシャツは、少しだけくたびれていて、でも清潔だった。
その胸ポケットには、小さな文庫本が差してある。
隣のベンチに腰掛けた彼女は、ふとその本に目を留めた。
「あの……それ、もしかして――」
声をかけるつもりはなかった。
けれど、風がページをめくり、タイミングをくれたのかもしれない。
「この本、昔、好きだったんです。高校の頃に」
彼女の声に、彼は驚いたように顔を上げた。
見知らぬ女性。でも、その瞳はまっすぐだった。
「……村上春樹、ですね。僕も、何度も読み返しました」
それだけで、二人の間に小さな橋が架かったようだった。
——
それから週に一度、彼は同じ時間にそのベンチに座るようになった。
彼女もまた、決まったように現れた。
季節は、初夏。
白いシャツがよく似合う陽射しと風のなかで、
ふたりは少しずつ、言葉を交わすようになった。
「今日は風が強いですね」
「ですね。でも、気持ちいいです」
そんな何気ないやり取りが、妙に嬉しかった。
まるで心の扉が、少しずつ軋みながら開いていくようだった。
彼は定年を迎えてから、やることを決めきれずにいた。
朝はゆっくり、昼は図書館か公園。
そんな時間の中で、彼女との会話が、日々に色を足していった。
彼女は、少し遅れてひとり暮らしを始めたと言った。
夫を見送り、子どもたちも独立し、静かすぎる部屋にまだ慣れない、と。
「でも、こうして風の通るところに来ると、少しだけ安心するんです」
彼は、その言葉を胸に刻んだ。
——
ある日、彼女は来なかった。
翌週も、その次の週も。
季節はいつの間にか梅雨に入り、
ベンチの上には小さな水たまりができていた。
彼は、それでもシャツに風を通しに来た。
もしかしたら、と、文庫本をポケットに差して。
三週目の午後。
風が久しぶりに乾いていた日、彼女は立っていた。
ベンチではなく、公園の入り口に。
「お久しぶりです」
彼が言うと、彼女は少しだけ目を潤ませた。
「会いたかったんです。でも……また会って、何を話せばいいか、わからなくて」
「……何も話さなくても、ここに来てくれたら、それで充分です」
彼はそう言って、ベンチを指さした。
ふたりは並んで座った。
風が、彼の白いシャツを通り抜けたあと、彼女のブラウスも揺らした。
「また、読みますか? あの本」
「はい。でも、今度は――」
彼女は、鞄から同じ文庫本を取り出した。
「同じページから、いっしょに」
夕方の風がページをめくった。
白いシャツに通る風は、もうひとり分の気配をまとっていた。
——
その午後から、ふたりの時間が始まった。
風が運んできたものは、ささやかな縁と、まだ遅くない再会だった。