― ただ黙って座る、それだけで心が通う時間。
夕方の公園は、少し肌寒かった。
葉を揺らす風が季節の変わり目を告げていて、ベンチの背には斜めの影が伸びていた。
そのベンチの片側に、彼が腰を下ろす。
座面の右端、いつもの定位置。
数分後、左端に彼女が座った。
ふたりの間に、かすかに温もりのある沈黙が落ちる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
それだけだった。
会話はそれ以上、膨らまなかったけれど、奇妙な居心地のよさがそこにはあった。
——
ふたりが初めてこのベンチに並んだのは、数か月前のことだった。
雨上がりの午後、濡れたベンチの片側だけが陽に乾いていて、
そこに彼女がそっと腰をかけた。
数歩遅れて来た彼が、迷いながらも空いている側に座る。
そのときから、ふたりの静かな時間は始まった。
週に一度、同じ曜日の同じ時間、同じベンチ。
お互いに名前も聞かないまま、ただ並んで座る。
会話は少ない。
でも、それがふたりにはちょうどよかった。
ベンチの前には池があり、鴨がときどき羽を広げる。
近くの売店からは、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
それらを感じながら、ふたりはただ、同じ方向を見ていた。
「今日の風は、冷たいですね」
「……冬が近いですね」
そんなやり取りが、ときどきある。
でも、会話は必要ない。
彼は心の中で思っていた。
——言葉を交わすより、影が重なるこの時間のほうが、ずっと大切だと。
——
ある週の午後、彼女は来なかった。
その次の週も、そのまた次も。
彼はいつもの位置に座り、隣の空白を見つめた。
日が落ちるのが早くなり、ベンチの影は小さくなった。
ふたりの影も、もう重なることはないのかもしれない――
そんな思いが、胸をかすめた。
三週間目の午後。
彼がベンチに座って数分が過ぎたころ、ゆっくりと足音が近づいた。
彼女だった。
少しだけ痩せたように見えたが、笑顔は変わっていなかった。
「……ただ、黙って座りたくなって」
彼女はそう言って、定位置に腰を下ろした。
「おかえりなさい」
彼が言うと、彼女は小さく頷いた。
それから、また静かな時間が流れた。
池には陽が映り、風が草をなでていった。
影がふたつ、ベンチの上にゆっくりと重なる。
言葉はない。
でも、それだけで充分だった。
ふたりの間には、もう“沈黙”ではなく“共有”があった。
時間も、風も、季節さえも、ふたりの気配を知っていた。
やがて、彼女がぽつりとつぶやいた。
「……この時間が、なくなるのが怖かった」
「大丈夫です。また、ここで待ってます」
彼女はそっと目を閉じた。
そして、手のひらがふと、彼の手に触れた。
重なった影の上で、ふたりの指がやさしく絡む。
それは、言葉よりも深い“約束”のようだった。
——
静かな午後。
影が重なるベンチは、ふたりの心が交わる場所になっていた。