ベランダの灯りと、ふたりの秘密

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――夕暮れ時にだけ交わされる、小さな約束の物語。

 

「おかえりなさい。今日も、無事に。」

午後五時。冬の夕暮れは早い。
ベランダに面したマンションの一室、その窓辺には、今日もひとつのランプが灯っていた。

 

白い陶器のランプシェードは、母が使っていた古いもの。
オレンジ色のやわらかな光が、レースのカーテンを透かして、道を行く人にもほんのり届くように設置してある。
その光が、向かいのマンションの五階に住む誰かの部屋にも届いているとは、ずっと知らずにいた。

 

最初に気づいたのは、半年前だった。
夏の終わり、洗濯物を取り込んでいると、ふと視界の端に揺れる小さな光があった。
向かいの部屋、同じ高さ。ベランダの隅に、小ぶりのランタンのようなものが点いていた。

それは、私の灯りと同じくらいの時間に、そっとともり、
私の灯りが消えるときに、ふっと一緒に消えていた。

 

気づけば、その“灯り”を毎日確認するようになっていた。

「今日も点いてる……」

ただそれだけのことが、少しだけ心をほどいてくれた。
何かを交わしたわけではない。会ったことも、言葉をかけたこともない。
だけど、同じ時間に、同じように誰かが灯りをともしている。
それが不思議と安心感をくれるようになっていた。

 

十月のある日。窓辺にメモを貼ってみた。
「こんばんは。いつも灯りを見ています。」

一日、返事はなかった。
二日目もなかった。
三日目、仕事から戻ると、向かいの窓に、紙が貼られていた。

「こんばんは。こちらこそ、あなたの灯りに、救われています。」

手が震えた。嬉しいという感情よりも、
この静かなやりとりが壊れてしまうのではないかという、不安が大きかった。

 

それから、数行だけの“文通”が始まった。
紙は日替わり。伝えることはほんのわずか。

「今日は風が強かったですね」
「ベランダの植木が倒れてしまいました」
「あなたの光が好きです」
「あなたも、どうかお元気で」

季節は進んで、空気は少しずつ冷たくなっていった。
灯りと文字だけのやりとり。それなのに、誰よりも近くに感じる存在。
名前も年齢もわからない。ただ、そこに“いてくれる”人。

 

クリスマスが近づいたある日。
仕事から帰ると、ベランダの灯りの向こう、窓辺に見慣れない小さな箱が置かれていた。
淡い包装紙にリボンがついている。

“窓越しに”渡されたプレゼント。

おそるおそる中を開けると、そこには
小さなランタンと、一通の手紙。

「同じ時間に同じ光を見ていた日々が、
 私にとって、とても大切なものになりました。
 いつか、光の外でも、あなたと会えたら嬉しいです。
 メリークリスマス。向かいの灯りより。」

涙があふれていた。
こんなにも、誰かの言葉が胸に届いたのは、いつぶりだろう。

 

次の日の夕方。私は、ベランダに新しい灯りを置いた。
向かいの窓を見上げる。すぐに、あちらの光もともった。

“ふたりの灯り”は、同じ時刻に点り、同じ想いを照らしていた。

 

いつか本当に会える日が来るかもしれない。
でも、たとえこのままでもいい。
誰かを想う気持ちが、毎日の景色を変えてくれると知ったから。

 

夕暮れ時。今日も、そっと灯りをともす。

それが、私たちだけの小さな約束。