――忘れたはずの温もりが、再び再生される夜。
その夜、彼は古い木箱の中から、一本のカセットテープを見つけた。
ラベルには、滲んだインクで書かれた名前――「陽子へ」。
それは、もう何十年も前の、自分の字だった。
カセットの横には、ポータブルの小さなテープレコーダーが一緒に眠っていた。
どちらも黄ばんでいて、再生できるかどうかもわからない。
だが、手が勝手に動いていた。
「電池、まだあるかな……」
引き出しの奥から取り出した単三電池を入れ、プレイボタンを押すと、
キュルルル……と巻き戻し音がしてから、かすれた声が響いた。
「……ようこ、元気にしてますか」
それは、若い頃の彼自身の声だった。
——
彼と陽子は、大学の軽音楽サークルで出会った。
ギターが得意な彼と、歌が好きな彼女。
ふたりで音を重ねる時間は、気づけば日常になっていた。
卒業と同時に別の道を選んだふたりは、
「いつかまた、音でつながれたらいいね」と笑いながら別れた。
そのとき彼が陽子に渡したのが、このカセットだった。
「これ、メッセージと、最後に一曲、ふたりで録ったやつ入れてあるから」
「カセットって、古いですね」
「それがいいんだよ。アナログのほうが、気持ちが残る気がして」
彼女はそう言って受け取り、バッグにしまった。
そしてそのまま、ふたりは別々の人生を歩んだ。
——
再生ボタンを押しながら、彼は目を閉じた。
声の合間に入る小さなノイズ、息継ぎ、照れ笑い――
すべてが、胸の奥をかすかに揺らした。
「……陽子、もしこれを聴いてるなら。
僕は、まだあなたの声を、ギターと一緒に思い出してます。
そっちはどう? 元気にしてますか」
そのあとに続いたのは、ギターと彼女の歌だった。
音質は荒く、音程も少し不安定で、でも妙にあたたかい。
まるで、あの日のスタジオの空気までも詰め込まれていたかのようだった。
——
翌朝、彼はレコーダーとテープを持って、近くの古書店へ向かった。
あの頃、ふたりでよく立ち寄っていた場所だ。
もしかしたら……と、淡い期待を胸に。
扉を開けた瞬間、レジの奥に立つ人影に目を奪われた。
「……陽子?」
驚いたように顔を上げた彼女は、すぐに小さく笑った。
「やっぱり。声、聞こえてたんですね」
「え?」
「この店、10年くらい前からやってるんです。偶然ね。
昨日、なんとなくあのテープが聴きたくなって……押し入れから出して」
彼は黙ったまま、カセットレコーダーを掲げた。
「……僕も、同じ夜に聴いてた」
ふたりは見つめ合い、そしてゆっくりと笑った。
「今からでも遅くないよね?」
「もちろん」
レコーダーの再生ボタンが、静かに押される。
店の片隅に、懐かしいメロディが流れ始めた。
——
再び再生された、若き日の声。
それは過去を懐かしむだけのものではなかった。
音は、記憶と感情と未来をつなぐ。
カセットテープに残した声が、ふたりをもう一度結び直した。
午後の店内に響く歌は、どこか新しく、そしてあたたかかった。