たまには“何もしない午後”を過ごしてみるという贅沢

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― 忙しさを手放したときに見えてくる、ほんとうの自分。

 

スマートフォンの通知も切って、テレビもつけず、予定帳も閉じてみる。
ただ、ソファに腰をおろして、カーテン越しの光を眺めるだけの午後。
それは一見「何もしない時間」だけれど、本当は、心をゆっくり呼吸させるための、とても贅沢なひとときかもしれない。

 

社会のなかで長く働き、家族を支え、日々の用事をこなしてきたからこそ、「何かをしていないと落ち着かない」と感じる人は少なくない。
でも、60代という節目に差し掛かった今だからこそ、「しない」という選択をしても、いいのではないだろうか。

 

窓の外を通り過ぎる雲をぼんやり眺めてみる。
湯気のたつカップを手のひらで包み、ただ香りを感じてみる。
そんな“空白の時間”にしか気づけないことが、きっとある。

 

思えば、いつの間にか「役に立つこと」「生産的なこと」ばかりを求めてきた。
けれど、本当に心が潤うのは、誰のためでもない“自分のためだけの時間”だったりする。

それは、過ぎた時間を振り返るための静けさかもしれないし、これから先の人生に思いを馳せるための余白かもしれない。
あるいは、「ただ、そこにいるだけでいい」と、自分自身に許すための小さな儀式でもあるのかもしれない。

 

なにも生み出さなくても、誰かに評価されなくても、価値のある時間はある。
むしろ、そうした時間にこそ、自分がほんとうに求めているものが浮かび上がってくることもある。

 

「そういえば、昔は絵を描くのが好きだった」
「この香り、母の家と同じだ」
「いつか行きたかった場所、まだ間に合うかもしれない」

そんなふうに、小さな記憶や想いが、ゆっくりと心の奥から顔を出す。

 

たまには、時計もカレンダーも気にせず、“何もしない午後”を過ごしてみよう。
それは「止まること」ではなく、「立ち止まる勇気」だ。
そしてその時間が、きっと明日を少しやさしくしてくれる。

 

——忙しさの向こう側に、本当の自分が、そっと待っているかもしれない。