「またね」が約束にならなくても、それでいいと思えた日

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― 未来を確約しない別れに、静かににじむ優しさ。

 

「じゃあ、またね」

そう言って手を振った背中が、夕陽に少しにじんで見えた。

 

若い頃は、「またね」は約束の言葉だった。
明日も、来週も、次の機会も、当然のように続いていくと思っていた。

けれど年を重ねて気づくのは、
「また」が必ず来るとは限らない、ということ。

 

体調も、予定も、暮らしも、変わる。
相手にも、自分にも、いつ何があるかは誰にもわからない。

だからこそ、今日という日が、特別でかけがえのない時間に思える。

 

数年ぶりに会った友人と、カフェで笑いながら話した午後。
帰り際、言葉の間にほんの少しの間を挟んで「またね」と言われたとき、
私はただ、笑って頷いた。

 

それは、「また会える」という約束ではなく、
「今日会えてよかったね」という共通の思いを、
そっと包んで差し出すような優しい言葉だった。

 

未来を無理に確かめなくても、
今この時間を大切にできたなら、それで十分かもしれない。

別れのときに、強く手を握りしめるのではなく、
ただそっと手を振る。
そんな距離感に、年齢を重ねたからこその“信頼”や“覚悟”が滲んでいた。

 

思い返せば、「またね」は、いつだって希望の言葉だった。
でも今は、願いを込めるだけで、じゅうぶん優しい。

たとえ次がなかったとしても——
今日、この時間を分かち合えた事実は消えないから。

 

「またね」が約束じゃなくてもいいと思えるようになったとき、
別れが少し、やわらかくなった気がした。

それは寂しさを知った大人の、静かな強さかもしれない。

 

——そしていつか、本当にまた会えたら、
そのときは今日の続きを、ゆっくり話せばいい。