午後から降り始めた雨は、静かに街を濡らし、アトリエの窓を曇らせていた。
絵描きの杉山啓介(68歳)は、窓の外にぼんやり目をやりながら、何度も描きかけのキャンバスに視線を戻していた。そこには、若い女性の後ろ姿が描かれていたが、どうしても顔を入れることができなかった。
「……今日も、描けないな」
そのとき、アトリエのドアがノックされた。
「失礼します……」
現れたのは、かつて彼が美術教師をしていた高校の教え子・滝沢紗江(さえ・64歳)だった。雨に濡れた傘をたたみながら、少し照れたように微笑んだ。
「先生、お元気そうで……久しぶりです」
啓介は目を見開いた。四十年ぶりの再会だった。
かつて、美術部でひたむきに描き続けていた紗江の姿は、今も記憶のなかに鮮やかに残っていた。
「偶然この近くで用事があって……急に、会いたくなったんです」
二人は昔の思い出を語り合い、雨音のなかで笑い声が混ざった。啓介はふと、描きかけの絵を見せた。
「これ……ずっと前から、君を描こうとしてた。でも、顔だけが描けなくて」
紗江はキャンバスを見つめ、ゆっくりと頷いた。
「描かれてたなんて、思わなかった。先生……昔、私が卒業するとき、何か言いかけましたよね」
啓介は小さく息を吸い、言葉を探すように呟いた。
「絵を続けてほしかった。君の絵が好きだった。……それと……」
雨音が少し強くなった。
「もっと早く会えてたら、きっと違う未来があったかもしれないって、ずっと思ってた」
紗江は一歩近づいて、微笑んだ。
「今日、来てよかった。もう一度、絵を描きたくなりました」
キャンバスに残った空白に、雨上がりの光が差し込んだようだった。
言えなかったことが、ようやく届いた午後。
二人の時間が、静かに動き出した。