病院の待合室には、いつも少し緊張した空気が流れている。
その日、朝から冷たい雨が降っていた。受付を済ませた藤井孝一(71歳)は、重い足取りで椅子に腰を下ろした。再検査という言葉が胸の奥に鉛のように沈んでいた。
隣に座っていた女性が、バッグからそっと折りたたみ傘をしまいながら言った。
「雨、止みそうにないですね」
藤井は小さく頷いた。「ええ、今日は少し肌寒い」
女性の名前は安田千代(70歳)。
「私も今日、検査なんです。毎年のことですけど、やっぱり不安になります」
それを聞いて、藤井は少し表情を緩めた。
「お互い、気が重いですね」
病院の時計が、静かに時を刻む。
ふたりは名前も知らないまま、健康診断の経験談や好きな季節の話をぽつぽつと語り合った。まるで旧知のように、言葉は自然と流れていった。
「来年もここで会えたらいいですね」
そう言ったのは千代だった。
「それ、約束ですね」
笑い合ったあと、先に呼ばれたのは千代の名前だった。背筋を伸ばして立ち上がり、振り返りざまに小さく手を振った。
「お先に。あなたも、きっと大丈夫」
その言葉が、藤井の胸にじんわりと染み込んだ。
数十分後、藤井も検査室へと向かった。足取りは、ほんの少し軽くなっていた。
春の終わり。窓の外に、雨の雫が光っていた。
小さな出会いと、小さな約束。
誰かと分かち合うことで、少しだけ勇気が持てることを、藤井は静かに噛み締めていた。