山あいの別荘地に、ひっそりと建つログハウス。
冬の午後、煙突から立ち上る煙の下で、暖炉に火をくべていたのは、かつて小説家だった松崎辰夫(73歳)。今は執筆からも離れ、静かな余生をこの地で送っていた。
その日、郵便を届けに来たのは地元の簡易郵便局で働く中村和美(69歳)。雪道を歩いて手渡された封筒は、一通の手紙だった。
「おかしいですね……この差出人も受取人も見覚えがないんです。どうやら誤配のようで」
宛名を見ると、確かにこの家の住所ではあったが、名前は見知らぬものだった。
「もしかしたら前の住人宛てかもしれません」
興味を持った辰夫は、和美を部屋に招き入れた。
暖炉の火がパチパチと音を立てる中、ふたりはテーブルを挟んで座った。
辰夫が手紙の封を開けると、便箋には震えるような筆跡で、昔の恋人への想いが綴られていた。
「——あなたがあのとき言わなかった言葉を、今でも待ってしまう私がいます」
和美は、それを聞いてはっとした顔をした。
「……それ、母の字に似てます」
辰夫は驚き、視線を和美に向けた。
「母は昔、東京の作家さんと文通していたと聞いたことがあります。名前までは知りませんが……」
静まり返った部屋に、火のはぜる音だけが響いた。
辰夫はそっと手紙を胸元に置き、語り出した。
「私は一度だけ、投函できなかった手紙がある。書いたのに、差し出せなかった。もしかしたら——その人が、君の母上かもしれないね」
ふたりはしばらく言葉を失ったまま、暖炉の火を見つめていた。
やがて辰夫が微笑みながら言った。
「続きを、話してもいいですか?」
和美はゆっくりと頷いた。
読みかけの手紙と、消えかけた物語が、静かに再び動き出した。
火のゆらめきのなかで、失われた時が、少しだけ埋まっていくようだった。