春が始まるころ、まだ冷たい風に混じって、やわらかな陽射しが街を照らしていた。
文子(ふみこ・67歳)は、自宅の押し入れを整理していたとき、ひと束の手紙を見つけた。薄茶色に変色した封筒には、学生時代にやりとりしていた文通相手、堀内修一(しゅういち・70歳)の名前があった。
文子は昔から「手紙を出すこと」が好きだった。誰かに言葉を丁寧に届けること、そして相手の返事を待つ時間が、人生の静かな喜びだった。
その中に、出しそびれた手紙が一通混じっていた。数十年前、引っ越しのバタバタで机にしまったままになっていた文。
文子は迷った末に、それをそっと投函した。住所は昔のまま。届くかどうかもわからない。それでも、春風に乗せるように、ひとつの願いを込めて。
数週間後、薄い封筒が文子のポストに届いた。
差出人は、堀内修一。
震える手で封を開けると、彼はこう書いていた。
「まさか、君の文字にまた会えるとは思わなかったよ。あの頃と同じように、丁寧で、やさしくて——変わってないね」
そして、一枚の写真が添えられていた。小さな庭の木蓮(もくれん)の木と、彼が手入れをしている姿。
「この春、うちの木蓮がきれいに咲きそうです。よかったら、見に来ませんか?」
春風が吹き抜けた窓辺で、文子は静かに頷いた。
手紙が再びふたりをつなぎ、季節も心も、少しずつ色を変えていく。
約束の日、文子は薄いストールを羽織り、小さな手土産を持って駅へと向かった。
春風は、やさしく背中を押していた。