『名前を呼ぶ日、風が止んだ日』

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風が止んだ午後だった。

桜の葉が舞う校庭跡地。春の陽射しがまぶしいその場所に、由紀子(ゆきこ・69歳)はひとり立っていた。母校の取り壊しが決まり、卒業生に向けて記念名簿を作るプロジェクトに携わることになったのだ。

古びた名簿を手に、連絡先を調べているうちに、懐かしい名前を見つけた。「早川俊夫(はやかわ・70歳)」——中学のとき、クラスも一緒で、一度だけ映画に誘われたあの人。

電話番号を見つけてから数日、迷っていたが、ついに電話をかけた。すると、変わらぬ低い声が応じた。

「……由紀子さん?」

その瞬間、心の奥にしまっていた何かが、そっとほどけた気がした。

数日後、ふたりは公園のベンチで再会した。四十年以上ぶりの顔。それでも、面影はあった。俊夫は白髪交じりになっていたが、口元のやさしさは変わっていなかった。

「君は、昔から静かな人だったよね」

「あなたこそ、あの頃から急に照れると黙るくせ、まだあるの?」

笑い合うふたり。互いの人生は別々に流れ、結婚もし、いまはふたりとも独り暮らしだった。

そのとき、ふいに俊夫が言った。

「ねえ、ひとつ、言ってみたいことがあったんだ。ずっと昔、名前で君を呼べなかったから……いま、呼んでもいいかな」

春の風が止み、空気がゆっくりと流れた。

「……由紀子」

たったそれだけの言葉が、長い時を越えて、心に深く届いた。

「ありがとう、俊夫さん」

風はまた吹きはじめた。

その午後、ふたりの人生は少しだけ重なった。そして、次の約束は、喫茶店でのコーヒーだった。


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