冬の午後、雪がちらつく中で開けた扉の奥に、ほの暗い明かりと本の匂いが広がっていた。
その古書店は、静けさが時間をゆっくり進めていた。和也(かずや・66歳)はその日、ふと足を止めて、昔から気になっていたその店に入った。棚の奥に一冊の文庫があった。中原中也の詩集。手を伸ばしたその瞬間、別の手と触れた。
「あ……すみません」
顔を上げると、女性が微笑んでいた。白いニットと眼鏡が印象的な、店番の女性。
「いえ。詩集、お好きなんですね」
彼女の名は律子(りつこ・68歳)。長年この古書店で働いているという。二人は、ひとつの本をきっかけに、文学の話を交わし始めた。
和也は週末ごとに通うようになり、そのたびに互いの好きな作家や思い出の本について語り合った。彼は若い頃に詩を書いていたこと、律子は編集の仕事をしていたこと。人生の歩みが本を通じて少しずつ重なっていった。
ある日、律子が和也に尋ねた。
「よかったら、あなたの本棚を見せてくれませんか?」
驚きながらも、和也は自宅の本棚の写真をスマホで見せた。並ぶ本の背表紙に、律子はゆっくりと頷いた。
「似てますね。私のと」
そして、二人はある一冊を取り出した。それは、互いに人生の節目で読んだ、同じ小説だった。
「この本……また読み返してみませんか?いまの私たちで」
寒い季節、ふたりの間に、本を通じたあたたかな灯りがともり始めていた。
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