図書館の中庭にある小さな休憩スペース。
植え込みの間に木製のベンチがあり、そこだけ春がぽっかりと咲いたように、陽射しがあたたかく満ちていた。
久美子は、そのベンチで文庫本を読んでいた。
ページの隅には付箋が挟まれ、読み返すたびに目を留める言葉がいくつかあった。
「名前を呼ぶことは、存在を確かめること——か」
つぶやいた声が風に紛れた頃、足音が近づいてきた。
「こんにちは。お邪魔してもいいですか?」
顔を上げると、森田健一が手に小さな紙袋を提げて立っていた。
「もちろん、どうぞ。……紙袋、何か春らしいものですか?」
「いえ、ただのパンです。でも、おいしいと評判の……ふたり分」
ふたりはベンチに並んで座り、紙袋の中からそれぞれ丸いパンを取り出した。
チーズと黒胡椒が香る、しっかりした食感のハードパン。
ひと口かじると、外の空気のやわらかさと混ざって、なんとも言えない幸せが広がった。
「——ねえ、健一さん」
久美子が唐突に言った。
「はい」
「そろそろ……“さん”をやめても、いいですか?」
健一は驚いたようにパンを持つ手を止めた。
「……それは、僕のセリフだと思ってました」
ふたりは見つめ合い、そしてふっと笑い合った。
「昔は、名前で呼ぶのが当たり前だったのに」
久美子は言った。
「家族でも、夫婦でも、いつからか“あなた”とか“ねえ”になって……名前で呼ばれると、なんだか背中が伸びるような気持ちになる」
健一は、小さく頷いた。
「僕もそうでした。妻の名前を、最初はよく呼んでいたのに……いつからか、名前では呼ばなくなった」
風が少しだけ強くなり、ページがぱらぱらと音を立てた。
「だから……“久美子さん”って呼ぶたびに、自分の声が少し変わる気がするんです。今の時間をちゃんと生きてるっていうか」
久美子は照れたように視線を落としたが、ゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、練習、します?」
「え?」
「名前で呼ぶ練習。ここで、今、してみましょう」
健一は一瞬戸惑いながらも、パンを袋に戻し、膝の上に手を置いた。
「……久美子さん」
「うん。もう一回」
「久美子さん」
「もう少し、目を見て」
「……久美子さん」
「……はい。合格です」
久美子は笑って、もう一度パンにかじりついた。
風の中、名前の響きだけが、春の匂いとともに心に残った。
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この章では、春のベンチでのやりとりや手軽な食事が、ふたりの距離を縮めました。
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