数日後、石川誠一は再び「風椅子」を訪れた。
その日は少し曇っていて、駅からの道にうっすらと湿り気が残っていたが、心は軽かった。
扉を開けると、店内は変わらず落ち着いた空気に包まれていた。カウンターには沢田澄子の姿。エプロン姿の彼女がふと顔を上げ、すぐに微笑んだ。
「また来てくれたのね」
「約束だったから」
誠一は前回と同じ窓際の席に腰を下ろした。テーブルの上には、小さなガラス瓶に挿されたミントが涼しげに揺れていた。
「今日は、ゆっくり?」
「うん。写真も撮らずに、ただのんびりしようと思って」
「それなら、いい香りのハーブティーでも淹れるわ」
そう言って澄子がキッチンへ向かうと、店内にはすぐにレモングラスとカモミールの優しい香りが広がった。彼女が選んだ香りは、かつて誠一の妻が好んでいたものに少し似ていた。
「……なんだか、懐かしい香りだな」
「そう? 昔、夫が好んでた香りなの。匂いって不思議よね、いろんな記憶を連れてくる」
「本当にそうだね。たとえば——」
誠一はカップに鼻を近づけながら、ゆっくり話し始めた。
「大学時代に通ってた喫茶店。コーヒーにほんの少しだけシナモンが混じっててさ。初めて口にしたとき、妙に印象に残って。結婚したあとも、ふいに思い出すことがあったよ」
「奥さまと仲が良かったのね」
「……最後まで、よく笑う人だった。病室でも、ずっと僕のカメラを心配してくれてさ。“現像、間に合ってる?”って。……ああいうの、忘れられないもんだね」
カップから立ちのぼる湯気が、ふたりのあいだに静かに漂った。
「私もね、夫とは晩年にようやく“夫婦”になれたような気がしてたの。最初は、ただ“家族”って感じだったのに、不思議ね」
「時間が積み重なるって、そういうことなのかもしれない」
「それでもね、後悔はあるの。もっと話しておけばよかった、とか。もっとふたりでどこか行っておけばよかった、とか」
「……それは、僕も同じだよ」
誠一はテーブルの上にそっと手を置いた。指先のしわが、年月の重さを物語っている。
「だから今、こうして誰かと話せていることが、すごくありがたい」
澄子は何も言わず、湯気の向こうから静かにうなずいた。
そのあとふたりは、店の裏手にある小さな花壇を見に行った。彼女が手入れしている紫陽花が、雨の名残を含んでみずみずしく咲いていた。
「見て。これ、去年挿し木したの。少しだけ色づいたでしょ」
「きれいだな。雨上がりの花って、なんだか胸にしみるよ」
「あなたの写真に、似てる」
「え?」
「前に撮った紫陽花の写真。少し陰影があって、でもどこか優しくて。……あなたの目を通して見る世界なんだな、って思った」
誠一は照れくさそうに笑った。
誰かに写真をそう言ってもらったのは、初めてだった。
その帰り際、澄子がひとつの封筒を手渡した。
「これ、よかったら。昔の店の常連さんが撮ってくれた私たちの写真。若かった頃よ。見て笑って」
「ありがとう。じゃあ、今度は僕が、ふたりの“今”を撮ってみようかな」
澄子はふっと目を細め、やわらかく笑った。
「……じゃあ、そのときは、笑う練習しておくわね」
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