駅前の時計が午後二時を告げた。夏の陽射しはやわらぎつつあり、どこか風が優しい。
石川誠一は、カメラバッグを肩に下げてゆっくりと歩いていた。65歳。去年の春に定年を迎え、今は年金とちょっとした写真投稿の報酬で細々と暮らしている。
歩いているのは、都内から電車で一時間ほどの郊外。小さな商店街と、古びた洋品店、そして角を曲がると、ぽつんと現れる小さな喫茶店があった。
店の名は「風椅子(ふういす)」。
昔、まだ仕事をしていた頃、たまたま見つけて入ったことがある。木の椅子が風鈴の音とともに出迎えてくれて、落ち着いた空間が印象的だった。何年も前のことだが、なぜか記憶に残っている。
「やってる、かな……」
扉には「営業中」の札。
ゆっくりと扉を開けると、ひんやりとした空気と、豆を挽く音が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ……」
その声に、思わず立ち止まる。
カウンターに立っていた女性。白いシャツにエプロン、控えめな眼鏡。その目元には、どこか見覚えがある。
「……沢田さん?」
「……えっ、もしかして……石川くん?」
数秒の沈黙のあと、ふたりは同時に小さく笑った。
「まさか、ここで再会するなんてね」
沢田澄子。高校時代の同級生。美術部で、誠一とは図書室で何度か話した程度だったが、不思議と印象に残っていた。いつも静かで、でも優しい雰囲気をまとっていた。
「この店、あなたが?」
「そう。夫が亡くなってから、一人で切り盛りしてるの。もう10年近くになるかな」
「へえ……立派だね。僕なんか、退職してからすっかりぼんやりしてて。今日は写真でも撮ろうかと、ふらっと来たんだけど……寄ってよかったよ」
「じゃあ、ゆっくりしていって。あの席、覚えてる?」
彼女が指差したのは、窓際の木の椅子と小さな丸テーブル。
かつて誠一が、書類を広げてコーヒーを飲んでいた席だった。
「覚えてるよ。……風が、気持ちよかった」
「そう。だから店の名前、こうしたの。“風に吹かれて座る椅子”って、少しでも安らげるようにって」
誠一は、ゆっくりとその椅子に腰を下ろした。窓からは風鈴が揺れ、微かな音が耳に心地よい。
コーヒーが運ばれてくる。小さな陶器のカップ。目の前に置かれるその手元に、誠一は視線を落とした。
「変わらないね」
「どこがよ」
「澄子さんの手。昔から、丁寧だったよね」
彼女は少しだけ照れたように笑った。
そのあとふたりは、ぽつぽつと昔の話を交わした。部活のこと、共通の友人のこと。最近は連絡もとっていなかったが、誰かが孫の写真を年賀状に載せてきた、などという話に笑い合った。
「……ねえ、今、何か書いてるの?」
「いや、もう書類仕事からは解放されたよ。今は写真だけ。老眼でちょっときついけど、楽しんでる」
誠一は、胸ポケットから折りたたみの老眼鏡を出し、静かに開いた。
「それ、便利そうね」
「軽いし、折りたためるからね。百均もいいけど、これは長く使ってる」
「私も最近、新聞読むのつらくなってきたのよ。そろそろ本格的な老眼鏡、探そうかな」
そう言って笑った彼女の目元に、ほんの少し、涙の跡のような影があったような気がした。
「よかったら、今度一緒に撮りに行かない? このあたり、季節の草花がきれいでさ」
その誘いに、澄子は少しだけ驚いたようだったが、うなずいた。
「……いいわね。それ、楽しそう」
夕暮れが近づいていた。風鈴がもう一度、優しく鳴った。
ふたりの再会は、静かな風と一脚の椅子からはじまった。
📦 第1章に登場したおすすめアイテム紹介
物語内で自然に登場した、シニア世代にやさしい便利なアイテムを以下に紹介します。
🕶️ 折りたたみ式老眼鏡(ポケットサイズ)
特徴:軽量で持ち運びしやすく、ケース付き。新聞やスマホ、カフェでの読書にも◎
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【Amazon】CliC クリックリーダー 折りたたみ式リーディンググラス
🪑 コンパクトな木製カフェチェア(シニア向け座りやすさ重視)
特徴:安定感があり、やわらかめの背もたれ。インテリアにも馴染む。
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【Amazon】LOWYA 木製カフェチェア(北欧風・座り心地重視)
🔔 癒やしの音色・風鈴(室内設置も可能)
特徴:やさしい音で夏を感じさせるアイテム。窓辺や玄関に。
参考商品例:
【Amazon】南部鉄器 風鈴(手作り音色・シンプルデザイン)
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