「本当に、大村くんなんだね……」
喫茶店の窓辺に並んで腰掛けた誠一に、高橋純子はじっと目を向けた。半世紀近い時間が空いているのに、こうして向かい合っていると、不思議と空白が埋まるような気がする。
「こんなところで会うなんてなぁ。てっきりもう、引っ越したと思ってた」
「一度はね。でも、母の介護があって実家に戻ったの。母が亡くなった後も、なんとなく居ついちゃって……。この店も、母が昔やってた場所なのよ」
「へえ、そうだったんだ。よく覚えてるよ。ここ、珈琲がうまくてさ」
「ありがとう。今は私が細々と引き継いでる。流行りのカフェじゃないけど、地元の人が時々立ち寄ってくれるのが嬉しくてね」
純子はカウンターから湯気を立てたコーヒーを運んできた。彼女の眼鏡の奥には、昔と変わらぬ穏やかな眼差しがあった。フレームの軽い、老眼鏡にしては洒落たデザインだ。
「いい眼鏡だね。似合ってる」
「見やすさ優先。最近は文字が小さくて困っちゃう。あ、そういえば……これもあったか」
と、純子は引き出しから古びたアルバムを取り出してきた。
「ちょっと待ってて。たぶん……あった。これ、見て」
アルバムの一枚目、文化祭の集合写真。そこには、若かりし誠一と純子、そして友人たちの笑顔が映っていた。誠一は、自分が今よりもずっと前のめりに笑っていることに驚いた。
「懐かしいな……あれ、これって?」
「うん、あのとき。大村くんが校内放送でかけてた曲、覚えてる?」
「たしか……『海を見ていた午後』だったっけ」
「そう、それ。あの時、少しだけ、話したの。私……あの頃、伝えたいことがあったんだけど、言えなくて……」
純子が視線を落とす。誠一は、少し肩を落として笑った。
「なんだかんだで、僕も似たようなもんだったよ。教師になって、結婚して、仕事に追われて。気づけばもう、こんな歳だ」
ふたりの間に、ゆっくりと時間が流れていた。
「……あの頃に戻りたいとは思わない。でも、また話せてよかった」
「うん。ほんとに」
外では蝉が鳴き、風が通り抜ける。その風に乗って、風鈴が小さく揺れた。
「今日は、どこかに泊まるの?」
「うん。浜の近くにある民宿を予約してある。ひとり旅って、どうしても荷物が多くなるからね。涼しいシャツとか、歩きやすいサンダルとか……備えすぎたかもしれない」
「旅慣れしてるのね、ふふ。あの辺り、まだ静かでいいところよ」
誠一は少し笑い、ふと喫茶店の壁際に置かれていた電動かき氷機に目をとめた。
「これ、まだ動くの?」
「うん。最近のは小さいけどパワーがあって、氷がふわっと削れるの。暑い日はね、常連さんが『いちごミルク』とか頼んでくれるのよ」
「じゃあ、僕にも。妻がね、かき氷好きだったんだ」
「……わかったわ。少し待ってて」
そう言って純子は立ち上がり、かき氷の用意を始めた。氷の削れる音が、夏の空気に混じって響く。その音が、どこか心地よく、胸の奥を揺らした。
ひと口、ふた口。いちごミルクの優しい甘さが、舌の上に溶けていく。誠一は目を閉じ、静かに頷いた。
——また、話せてよかった。
——こんなふうに、夏の午後を過ごせるなんて。
窓の外では、波が変わらず寄せては返していた。まるで「まだ遅くないよ」と言っているように。
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