東京郊外、春の始まりを感じる三月。風はまだ冷たいが、陽ざしには確かにやわらかさがあった。
「今日は、少し足を延ばしてみませんか?」
澄子からそう声をかけられたのは、喫茶店「ひだまり」のテーブルにコーヒーが運ばれた直後のことだった。
「駅前に、昔ながらの花屋さんがあるんです。いつも通り過ぎるだけで、入ったことがなくて」
仁は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「いいですね。僕も、最近は花を買うなんてなかったから」
澄子がその店に興味を持ったきっかけは、数日前、テレビで見た高齢者向けのガーデニング特集だった。
「土いじりは心にもいいそうですよ。育てる花があるだけで、毎日の張り合いになるって」
そう言って見せてくれたのは、彼女が最近購入したという「初心者向けの室内鉢植えセット」のパンフレットだった。
「ネットで買ってみたんです。届いたときは、こんなに簡単に始められるんだって驚きました」
「僕なんか、花瓶に花を挿すことすらしたことないですよ」
「じゃあ、今日がその第一歩、ですね」
澄子は楽しげに笑い、杖兼椅子を小脇に抱えた。
駅前の花屋「ふくい花苑」は、店頭に季節の花が並び、ほのかに香りがただよっていた。
ガーベラ、ラナンキュラス、スイートピー。春の色があふれている。
「どれも綺麗ですね……」
澄子が目を細めると、仁もそれにうなずいた。
そのとき、一角に置かれていたミニバラの鉢がふと目に留まった。
「これ、どうですか? 可愛いし、ベランダでも育てられるそうですよ」
「ほんとだ。花言葉、なんでしょうね」
澄子が小さなラベルをめくる。
『ミニバラ(赤):愛情、温かい心』
二人は顔を見合わせ、少しだけ照れくさそうに笑った。
その日の夕方、澄子は仁の勧めでミニバラと、初心者向けの「自動給水プランターセット」を購入した。
「水やり忘れても大丈夫らしいんです。ありがたいですね、年をとると特に……」
「僕にも向いてるな、それ」
「では、お揃いで始めましょうか。花のある暮らし」
コーヒーと読書、そして少しの花。
その組み合わせが、自分たちの生活にどれほどの彩りを与えてくれるのか、
このときの二人は、まだ想像していなかった。
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