東京郊外、小田急線の駅から少し歩いたところに、古びたけれど落ち着いた雰囲気の喫茶店がある。
名前は「ひだまり」。木の看板と控えめなステンドグラスの扉が目印だ。平日の昼下がり、店内には年配の常連客が多く、新聞を読んだり、静かにコーヒーを飲んだりしている。
佐久間仁は、その店に通いはじめて三年になる。
妻に先立たれた後、家にいても落ち着かず、たまたま見つけたこの喫茶店の角の席が、彼にとっての「居場所」になった。
「ホット、いつものように、でいいですか?」
店主の真理子が声をかけると、仁は軽く頷いた。
「うん、それで」
カップの縁に小さなチップが入った白い陶器のコーヒーカップ。そこに注がれる熱いコーヒーの湯気を見つめながら、仁はふうと息をつく。
カウンターの時計は、午後2時ちょうどを示していた。仁の来店時間はほぼ毎日同じ。彼にとって、この喫茶店での一杯が、一日のリズムそのものだった。
その日、隣の席に見慣れない女性が座った。
白髪をふんわりと結い上げ、淡いベージュのコートを羽織っている。首元には細かな刺繍のストール。品があるが、どこか親しみやすい雰囲気だ。
女性はテーブルにひとつの文庫本を置き、メニューを見ていた。
「コーヒーと、レモンケーキをお願いします」
声が柔らかく、仁は思わずその方向を見た。
「あら……すみません、声が大きかったかしら」
女性は笑って言った。
「いや、大丈夫。初めて、ですか?」
仁が控えめに尋ねると、女性はうなずいた。
「ええ、前から気になってたんですけど、やっと来られました。静かで、いいお店ですね」
「そうですね。うるさくないし、コーヒーも、なかなか」
「おすすめは?」
「僕は……ブレンドばっかりだけど、ケーキならチーズケーキも美味しいですよ」
「あら、それもよかったかしら。次はそうします」
それだけのやりとりで、会話は終わったが、仁の胸には少しだけ温かいものが残った。
数日後、再びその女性が店に現れた。
「こんにちは」
にこやかに挨拶する彼女に、仁は軽く会釈した。
その日も同じ席、同じ注文。コーヒーとレモンケーキ、そして文庫本。
「よく本を読まれるんですね」
「ええ、昔から。最近は、読み返してばかりですけど……。あ、私、藤森澄子と申します」
「佐久間仁です。どうも」
お互い名前を名乗ると、それだけで少しだけ距離が縮まったように感じた。
「佐久間さん、毎日いらっしゃるんですか?」
「まあ、ほとんどですね。ここが落ち着くので」
「わかります。家にいると、時計ばかり見ちゃうんです。まだ四時? って」
澄子の言葉に仁は小さく笑った。
「そうそう。時間が余っちゃってね」
二人は笑い合い、それからは自然と会話が続くようになった。
読み終えた本の話、近所のスーパーのポイント倍デー、昔観た映画のこと――。
ある日、澄子が小さな杖を携えて店に入ってきた。
「今日は少し膝が痛くて。でも、この椅子、折りたためるから助かるんです」
そう言って、杖の先をカチリと押し広げると、簡易の座面が現れた。
仁は驚いて目を丸くした。
「そんな便利なものがあるんですか」
「ネットで見つけたんですよ。これなら公園で座るのも楽になって。年をとると、道具に助けられることが増えますね」
そう語る澄子の表情は、少し誇らしげだった。
「今度、僕も買ってみようかな」
仁は、そうぽつりと呟いた。
その日の帰り道、澄子と仁は、店の前の小道を並んで歩いた。
「なんだか、今日も話しすぎちゃいました」
「いえ、僕も……こんなに誰かと話したのは、久しぶりです」
風が少し冷たくなってきた夕暮れ。
澄子のストールの端が風に揺れ、仁の視線がそこに留まる。
「また、お会いできるといいですね」
「きっと、またここで」
約束もしないまま、でも自然と交わされた言葉。
夕暮れのひだまりが、二人の影を優しく伸ばしていた。
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