日曜の午後、仁は澄子の家の前に立っていた。
小さな門を開けると、庭には夏の花が咲いていた。控えめに揺れる紫陽花、鉢植えのミントの香り。暮らしを丁寧に重ねてきた人の庭だと、すぐにわかった。
「いらっしゃい、仁さん」
玄関を開けた澄子は、エプロン姿で迎えてくれた。白いリネン地に、レモン色の小花柄。彼女にとてもよく似合っていた。
「早く来すぎたかな?」
「ううん。ちょうど煮物がいい香りになってきた頃。どうぞ、上がって」
仁は遠慮がちに玄関をくぐる。廊下には風鈴の音が響き、奥からはだしの足音が軽やかに聞こえた。
リビングのテーブルには、すでに料理が並べられていた。
彩り豊かな五目煮、焼きなすの冷やしだし浸し、わかめときゅうりの酢の物。
「わあ……お店みたいだね」
「ふふ、こういうの、好きなの。ひとりじゃつい手抜きになるけど、誰かが来てくれると張り切っちゃう」
仁は、テーブルの端に置かれた写真立てに目をとめた。中には、若い日の澄子と、その隣に笑う男性――おそらく亡き夫――が映っていた。
ふと目が合った澄子が、小さくうなずく。
「主人です。……もう、十五年になるのね」
「……そうですか」
仁は、胸の奥にわずかに疼く感情を覚えながら、椅子に腰を下ろした。
自分もまた、良子との写真を仏壇の上に置いていることを思い出す。
「澄子さん」
「はい?」
「俺たち、いま……何か、始めようとしてますよね。新しい関係を。だけど――お互い、心のどこかに、それぞれの人を今でも……」
言葉を選ぶ仁に、澄子はやさしく微笑んだ。
「ええ。忘れたわけじゃないの。だけど、忘れる必要もないのよ。だって……愛した人の記憶は、人生の一部だもの」
仁は、その言葉に救われた気がした。
「……俺ね、息子に会ったんだ」
「まあ……」
「たまたま向こうから連絡があって。再婚の話をしたら……最初は驚いてた。でも最後は、『父さんの人生だから』って言ってくれたよ」
澄子は目を細めて頷いた。
「よかったですね。息子さんも、あなたの幸せを願っているのね」
その瞬間、静かに何かが変わった気がした。
互いの過去を認め、現在を受け入れ、未来に向かう準備が、二人の間に整ったように思えた。
食事のあと、二人は並んでベランダに出た。
西の空に沈みかけた夕日が、街を淡いオレンジに染めている。
「仁さん、私……ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんでも言ってください」
「いずれ、あなたと一緒に住むことになったら……この家を、私の過去ごと受け入れてくれますか?」
仁はしばらく黙ったまま、庭に揺れる風を見ていた。
「もちろんです。あなたの人生に、敬意をもって入りたい。……俺にも、そうしてほしいから」
澄子の目が、わずかに潤んだ。
「ありがとう。……ほんとうに、ありがとう」
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