湯気の向こうに 第6章 それぞれの余白

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 日曜の午後、仁は澄子の家の前に立っていた。

 小さな門を開けると、庭には夏の花が咲いていた。控えめに揺れる紫陽花、鉢植えのミントの香り。暮らしを丁寧に重ねてきた人の庭だと、すぐにわかった。

「いらっしゃい、仁さん」

 玄関を開けた澄子は、エプロン姿で迎えてくれた。白いリネン地に、レモン色の小花柄。彼女にとてもよく似合っていた。

「早く来すぎたかな?」

「ううん。ちょうど煮物がいい香りになってきた頃。どうぞ、上がって」

 仁は遠慮がちに玄関をくぐる。廊下には風鈴の音が響き、奥からはだしの足音が軽やかに聞こえた。

 リビングのテーブルには、すでに料理が並べられていた。
 彩り豊かな五目煮、焼きなすの冷やしだし浸し、わかめときゅうりの酢の物。

「わあ……お店みたいだね」

「ふふ、こういうの、好きなの。ひとりじゃつい手抜きになるけど、誰かが来てくれると張り切っちゃう」

 仁は、テーブルの端に置かれた写真立てに目をとめた。中には、若い日の澄子と、その隣に笑う男性――おそらく亡き夫――が映っていた。

 ふと目が合った澄子が、小さくうなずく。

「主人です。……もう、十五年になるのね」

「……そうですか」

 仁は、胸の奥にわずかに疼く感情を覚えながら、椅子に腰を下ろした。
 自分もまた、良子との写真を仏壇の上に置いていることを思い出す。

「澄子さん」

「はい?」

「俺たち、いま……何か、始めようとしてますよね。新しい関係を。だけど――お互い、心のどこかに、それぞれの人を今でも……」

 言葉を選ぶ仁に、澄子はやさしく微笑んだ。

「ええ。忘れたわけじゃないの。だけど、忘れる必要もないのよ。だって……愛した人の記憶は、人生の一部だもの」

 仁は、その言葉に救われた気がした。

「……俺ね、息子に会ったんだ」

「まあ……」

「たまたま向こうから連絡があって。再婚の話をしたら……最初は驚いてた。でも最後は、『父さんの人生だから』って言ってくれたよ」

 澄子は目を細めて頷いた。

「よかったですね。息子さんも、あなたの幸せを願っているのね」

 その瞬間、静かに何かが変わった気がした。
 互いの過去を認め、現在を受け入れ、未来に向かう準備が、二人の間に整ったように思えた。


 食事のあと、二人は並んでベランダに出た。
 西の空に沈みかけた夕日が、街を淡いオレンジに染めている。

「仁さん、私……ひとつだけ、お願いがあるの」

「なんでも言ってください」

「いずれ、あなたと一緒に住むことになったら……この家を、私の過去ごと受け入れてくれますか?」

 仁はしばらく黙ったまま、庭に揺れる風を見ていた。

「もちろんです。あなたの人生に、敬意をもって入りたい。……俺にも、そうしてほしいから」

 澄子の目が、わずかに潤んだ。

「ありがとう。……ほんとうに、ありがとう」


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