七月の風が湿気を含んで、肌にまとわりつく。仁はそんな重たい空気を払いながら、商店街を歩いていた。
手には、スーパーで買ったばかりの食材。豚肉、長ネギ、木綿豆腐、そしてしめじ。今夜は鍋にする予定だった。
料理教室で澄子に教わった「夏でもおいしいさっぱり鍋」をふと思い出したのだ。
キンと冷えたビールと一緒に食べれば、食欲の落ちたこの季節でもするすると胃に入ってくる。
帰宅後、手慣れた手つきで支度を始める。澄子に教わったレシピノートを見ながら、彼女の笑顔が浮かんだ。
「仁さん、白菜は軸のほうから切ると歯ごたえが残りますよ」
ふと、声が耳元に蘇る。
仁は、台所で立ち止まり、小さく笑った。
そして、思い立ったように携帯を取り出す。
連絡帳から「澄子」の名前を選び、電話をかけた。
「もしもし、仁さん?」
「澄子さん。こんばんは。今……少しだけ、時間ありますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「今日、例の鍋を作ろうと思って。よかったら……一緒に、いかがですか?」
一瞬の沈黙のあと、澄子の声が、やわらかく返ってきた。
「うれしいです。じゃあ、あと30分で伺いますね」
玄関のチャイムが鳴ると、仁はすぐに扉を開けた。
澄子は、生成りのブラウスに薄いグリーンのスカートという装いで立っていた。手には、きれいに包まれたガラスの器。
「これ、きゅうりとミョウガの浅漬けです。さっぱりして、鍋に合うと思って」
「わざわざありがとう。うれしいよ」
二人はキッチンに並び、鍋の準備を続けた。
湯気がふわりと立ち上がるころには、部屋の空気までやわらかくなっていた。
食卓に鍋を置き、並べた小皿と箸。グラスにはビールを注いだ。
「では、改めて。いただきましょうか」
「いただきます」
テーブルを挟んで向かい合い、口を動かしながら、会話は自然に流れ始めた。
「……こうして、家で誰かとご飯を食べるのって、いつぶりかしら」
「私もだ。誰かが『うまい』と言ってくれるだけで、食事の味が変わる気がする」
「それ、すごくわかります」
湯気越しに見る澄子の顔は、どこか柔らかく、あたたかく感じられた。
ほほえみの奥に、歳月の積み重ねがにじんでいた。
「澄子さん。……あなたは、旦那さんを亡くしてから、どんなふうに過ごしてこられたんですか?」
仁の問いに、澄子は一瞬だけ箸を止め、そしてゆっくり語りはじめた。
「最初の数年は、毎日が灰色でした。何をしても楽しくなくて。料理教室に通いはじめたのも、何かしなきゃと思って……でも、料理をするたびに、あの人の好きだった味を思い出すんです」
「……わかります。私も、良子が好きだった茶碗蒸しを作るたび、思い出しますよ」
二人の言葉の端々に、亡き伴侶への敬意が漂っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、澄子がぽつりとつぶやいた。
「でもね、不思議と……料理教室であなたに出会ってからは、誰かのために作ることが、少し楽しくなったの」
仁の手が止まる。
「……私もです。あなたがいると、台所が明るくなった気がする。澄子さん、私はね……もう少し、あなたのことを知りたいと思ってる」
鍋の湯気が、二人のあいだを曖昧に揺らしていた。
澄子は小さく微笑みながら、うなずいた。
「私も……もっと、仁さんとお話したいです」
食事を終えて、玄関まで見送るとき――澄子はふと、立ち止まった。
「……あの、仁さん。来週の日曜、うちに来ませんか? 得意の煮物、作ります」
「喜んで。楽しみにしてます」
そして、扉が閉まったあとも、仁はしばらくその場から動けなかった。
湯気の向こうに見えた澄子の横顔。
そこに映ったやさしさは、仁の心にそっと入り込み、新しい日々の始まりを予感させていた。
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