梅雨の晴れ間にしては、気持ちのよい日差しが窓辺に差し込んでいた。
午後三時、壁掛け時計が小さく鳴ると同時に、インターホンが鳴った。
仁は新聞を脇に置いて立ち上がる。来訪者は珍しくなかったが、事前の連絡もないこの時間に来るのは、そう多くはない。
玄関ドアを開けると、そこに立っていたのは――息子の健太だった。
「おい、久しぶりに顔を見せたと思ったら、急だな」
「こっちに仕事で来ててさ。思い出して、寄ってみた」
健太はサラリーマンらしくネイビーのジャケット姿。額には汗が滲んでいる。
仁は手招きし、玄関に通した。
「まぁ上がれ。ちょうどアイスコーヒーを作ったところだ」
二人でリビングに腰を下ろし、グラスに氷がカランと音を立てた。
健太がこうして一人で訪ねてくるのは、数年ぶりのことだった。
電話やメールは時折あったが、どこか遠慮がちなやり取りに留まっていた。
「こっちは相変わらず、静かだな」
「まぁ、静かな分、よく眠れるよ。君のところは?」
「東京はうるさいよ。マンションの上の階の足音がずっと気になるし。あと、子どもがうるさくて」
「まぁ、お互い様だ」
互いに笑いながらも、どこかぎこちない空気が流れていた。
仁は思い切って、今気になっていることを口にした。
「……良子が亡くなってから、もう五年だな」
「そうだな。早いもんだ」
「それでも……最近、ようやく気持ちの整理がついてきた。ひとりの時間にも、意味を感じられるようになったというか」
健太はグラスを置き、仁の顔を真っすぐ見つめた。
「……父さん。まさか、誰か……?」
「……ああ、そうか。やっぱりそう聞くか」
仁は苦笑し、頷いた。
「まだ、何も決まったわけじゃない。ただ、料理教室で知り合った方がいてね。名前は澄子さん。未亡人で、歳は私と同じくらいだ」
健太は少し驚いたように眉を上げたが、すぐにうなずいた。
「そうか……うん。ちょっとびっくりしたけど、父さんが前向きに誰かと話してるっていうのは、正直、嬉しいよ」
「ありがとう。君がそう言ってくれて、ホッとした」
「母さんのことを否定するわけじゃない。でも、父さんがこのままひとりでいるのは、やっぱり寂しいと思ってた。俺や娘にはできないことが、あると思うから」
その言葉に、仁の胸が少し熱くなった。
息子にそう言われることが、どれだけ自分を救っているのか、うまく言葉にできなかった。
「澄子さんには、もう会ったのか?」
「いや。まだだ」
「じゃあ、今度機会があったら、俺も挨拶させてくれよ。話の流れ次第では……再婚も視野に入ってるんだろ?」
「まだ、そこまでは……でも、そうなったら、ちゃんと紹介するよ」
健太は頷き、少しだけ笑った。
「じゃあ、俺からも一つ報告。……実は、来年からこっちに転勤になるんだ。今の部署の統合で、関西の拠点がメインになる」
「本当か?」
「ああ。妻と子どもは少し先に引っ越すけど、俺は年明けには完全にこっち。近くなるよ、父さん」
「それは……ありがたい。何かあったら、相談できる距離だな」
父子の間に、少しだけ距離が縮まったような気がした。
健太が帰ったあとの夕暮れ。仁は、書斎にある封筒を一枚取り出した。
それは、良子の遺品の中にあったもの。彼女が生前、ひそかに書き残していた手紙だった。
「仁へ。あなたがもし、再び誰かを想う日が来たら、その人を大事にしてほしいと思っています。
たとえ、私とは違う形の愛であっても、あなたが笑っているなら、それがいちばんです」
仁は何度もこの手紙を読んでいたが、今日ほど胸に沁みた日はなかった。
窓の外に、紫陽花がひっそりと揺れていた。
午後三時の訪問者――それは、人生を再び“進める”ための鐘の音だったのかもしれない。
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