湯気の向こうに 第4章 午後三時の訪問者

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 梅雨の晴れ間にしては、気持ちのよい日差しが窓辺に差し込んでいた。

 午後三時、壁掛け時計が小さく鳴ると同時に、インターホンが鳴った。
 仁は新聞を脇に置いて立ち上がる。来訪者は珍しくなかったが、事前の連絡もないこの時間に来るのは、そう多くはない。

 玄関ドアを開けると、そこに立っていたのは――息子の健太だった。

「おい、久しぶりに顔を見せたと思ったら、急だな」

「こっちに仕事で来ててさ。思い出して、寄ってみた」

 健太はサラリーマンらしくネイビーのジャケット姿。額には汗が滲んでいる。
 仁は手招きし、玄関に通した。

「まぁ上がれ。ちょうどアイスコーヒーを作ったところだ」


 二人でリビングに腰を下ろし、グラスに氷がカランと音を立てた。

 健太がこうして一人で訪ねてくるのは、数年ぶりのことだった。
 電話やメールは時折あったが、どこか遠慮がちなやり取りに留まっていた。

「こっちは相変わらず、静かだな」

「まぁ、静かな分、よく眠れるよ。君のところは?」

「東京はうるさいよ。マンションの上の階の足音がずっと気になるし。あと、子どもがうるさくて」

「まぁ、お互い様だ」

 互いに笑いながらも、どこかぎこちない空気が流れていた。
 仁は思い切って、今気になっていることを口にした。

「……良子が亡くなってから、もう五年だな」

「そうだな。早いもんだ」

「それでも……最近、ようやく気持ちの整理がついてきた。ひとりの時間にも、意味を感じられるようになったというか」

 健太はグラスを置き、仁の顔を真っすぐ見つめた。

「……父さん。まさか、誰か……?」

「……ああ、そうか。やっぱりそう聞くか」

 仁は苦笑し、頷いた。

「まだ、何も決まったわけじゃない。ただ、料理教室で知り合った方がいてね。名前は澄子さん。未亡人で、歳は私と同じくらいだ」

 健太は少し驚いたように眉を上げたが、すぐにうなずいた。

「そうか……うん。ちょっとびっくりしたけど、父さんが前向きに誰かと話してるっていうのは、正直、嬉しいよ」

「ありがとう。君がそう言ってくれて、ホッとした」

「母さんのことを否定するわけじゃない。でも、父さんがこのままひとりでいるのは、やっぱり寂しいと思ってた。俺や娘にはできないことが、あると思うから」

 その言葉に、仁の胸が少し熱くなった。
 息子にそう言われることが、どれだけ自分を救っているのか、うまく言葉にできなかった。

「澄子さんには、もう会ったのか?」

「いや。まだだ」

「じゃあ、今度機会があったら、俺も挨拶させてくれよ。話の流れ次第では……再婚も視野に入ってるんだろ?」

「まだ、そこまでは……でも、そうなったら、ちゃんと紹介するよ」

 健太は頷き、少しだけ笑った。

「じゃあ、俺からも一つ報告。……実は、来年からこっちに転勤になるんだ。今の部署の統合で、関西の拠点がメインになる」

「本当か?」

「ああ。妻と子どもは少し先に引っ越すけど、俺は年明けには完全にこっち。近くなるよ、父さん」

「それは……ありがたい。何かあったら、相談できる距離だな」

 父子の間に、少しだけ距離が縮まったような気がした。


 健太が帰ったあとの夕暮れ。仁は、書斎にある封筒を一枚取り出した。
 それは、良子の遺品の中にあったもの。彼女が生前、ひそかに書き残していた手紙だった。

「仁へ。あなたがもし、再び誰かを想う日が来たら、その人を大事にしてほしいと思っています。
たとえ、私とは違う形の愛であっても、あなたが笑っているなら、それがいちばんです」

 仁は何度もこの手紙を読んでいたが、今日ほど胸に沁みた日はなかった。

 窓の外に、紫陽花がひっそりと揺れていた。
 午後三時の訪問者――それは、人生を再び“進める”ための鐘の音だったのかもしれない。


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