湯気の向こうに 第3章 傘を忘れた午後

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 梅雨入り前の、不安定な空模様だった。

 朝の天気予報では「曇りのち晴れ」。だが、昼を過ぎる頃にはすっかり空が陰り、遠くで雷鳴のような音が響いていた。
 仁は公民館の玄関先で、空を仰ぎ見た。

「これは……降りそうだな」

 そうつぶやいたが、傘は持っていない。今朝、玄関先で妻が使っていた置き傘を手に取ったが、畳まれたままの状態を見て、「大丈夫だろう」と棚に戻してしまったのだ。
 ため息をつきつつ靴を履いていると、背後から聞き覚えのある声がした。

「佐伯さん、傘、お持ちですか?」

 振り返ると、澄子が立っていた。グレーのカーディガンを羽織り、小さな傘を片手に提げている。
 先週よりも少しくだけた表情で、どこか親しみのある笑みを浮かべていた。

「いいえ。油断して持ってきませんでした」

「よろしければ……ご一緒しましょうか。駅まででしたら、道も同じでしょう?」

 その申し出に、仁は一瞬ためらった。年頃の男女なら“相合い傘”という言葉が浮かぶところだろう。
 だがこの年になると、妙な照れよりも、実利の方が勝る。
 仁は軽く会釈して答えた。

「お言葉に甘えて、よろしくお願いします」


 傘の下は、狭いけれど不思議な安心感があった。

 仁と澄子の肩が触れるほどの距離。会話は少なかったが、雨の音がその静けさを柔らかく包み込んでくれていた。
 やがて踏切を渡ったところで、澄子がぽつりとつぶやいた。

「今日は、亡くなった夫の誕生日なんです」

 その声は、湿った風の中でもはっきりと耳に届いた。仁は思わず歩みを緩めた。

「そうでしたか……失礼しました。気づかずに、すみません」

「いえ、話したかったんです。黙っていたら、私自身が忘れてしまいそうで……」

 澄子の目はまっすぐ前を向いていた。
 仁はその横顔に、自分と似た空白のような時間を感じた。

「私の妻は、春が好きでした。桜の頃に亡くなって……以来、春が来るたび、少しだけ苦しくなります」

「わかります。季節って、思い出をよく覚えてますものね」

 澄子が笑うと、雨が少しだけやんだ気がした。


 駅前の喫茶店に入る頃には、外はすっかり本降りになっていた。
 ガラス越しの雨粒を眺めながら、ふたりは並んで座っていた。

「この店、昔からありますよね。ご主人とよく来られていたんですか?」

「ええ。でも、あの人はコーヒーが苦手で……私は紅茶を頼んで、あの人はホットミルク。ふふ、子どもみたいでしょう?」

「いや、それはそれで微笑ましいですね」

 仁は、思い出を語る澄子の表情に、どこか温かさを感じた。
 亡き人との記憶を語れる人は、心の整理を少しずつ進めている証拠でもある。

「佐伯さんは、再婚とか……考えたことは?」

 突然の問いだった。仁は、しばらく視線をカップの中の珈琲に落とし、それから静かに言った。

「ないですね。……いや、ないと思っていました。今日までは」

 その一言に、澄子は目を瞬いた。

「あなたのような方が、もう一度誰かと笑っていられるのなら、それは素敵なことだと思います」

「そう……ですかね」

「ええ。私は……また誰かと一緒にご飯を食べたいって、最近思うようになったんです」

 仁は頷き、カップを持ち上げた。

「じゃあ、来週の教室も、ちゃんと来ますよ。美味しいご飯、教えてもらわないと」

「ふふ。それは嬉しいです」

 雨音の中、ふたりの笑い声は静かに重なった。


 帰り際、仁は澄子に「傘、お返しします」と手渡そうとした。だが、澄子は小さく首を振って言った。

「もうひとつ、折りたたみがバッグにあります。これは、預けておきます。……次に、また使う日まで」

 仁はそれ以上は聞かなかった。ただ、黙って頭を下げた。

 その日の夜、仁は本棚の奥に仕舞っていた古い写真アルバムを取り出した。
 良子との時間は、今でも鮮やかにそこにある。けれど、ページを閉じたとき、心のどこかが静かに動き出していた。


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