湯気の向こうに 第2章 公民館の扉

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 日曜の午前、公民館の前に立った仁は、緊張で指先が妙に冷たくなっていることに気づいた。

「ったく、料理教室ごときで……」

 苦笑しながらも足は止まる。建物のガラス戸の向こうには、すでにエプロン姿の数人が見えていた。
 にぎやかすぎず、静かすぎず、ちょうどいい雑音が耳に届く。
 仁は深く息を吸い、ガラス戸を引いた。


「佐伯さんですね。どうぞ、こちらへ」

 山岸さんに手を引かれるようにして通されたのは、長テーブルがいくつか並んだ調理実習室だった。
 すでに十人ほどの高齢男性たちがそれぞれのテーブルにつき、包丁の持ち方や食材の扱い方を講師に教わっていた。

「今日のメニューは“筑前煮”ですって。あなたの年代なら、懐かしいでしょ?」

 仁は苦笑いでうなずいた。懐かしいどころか、妻の得意料理だった。
 それだけに、少し胸が詰まる。

「講師の先生、紹介するわね。こちら、白川澄子先生」

 と、山岸さんの声に促されて振り向いた仁は、思わず目を見開いた。

「はじめまして、白川です」

 柔らかく結った白髪に、淡いグレーの割烹着。年齢はおそらく六十代半ば。けれど、背筋が伸び、目元には若い頃の品のよさが残っている。
 そしてその声――包丁の音や人の話し声が混ざるなかでも、不思議と耳にすっと入ってくる、静かな声だった。

「……よろしくお願いします。佐伯です」

 仁は小さく頭を下げながら、自分でも驚くほど、声が上ずったことを感じていた。


「筑前煮はね、火加減より“順番”が大事なの」

 澄子の説明は実に丁寧だった。人参、ごぼう、れんこん――固い根菜から順に炒めていく。
 だし汁を入れた後は、落し蓋をして、中火でことこと煮る。
 たしかに、それは良子のやり方とも似ていた。仁は手を動かしながら、久しぶりに台所に立つ緊張感とわずかな高揚感を覚えていた。

「佐伯さん、包丁の持ち方、いいわね。昔、料理されてました?」

「いや、妻が上手で……ほとんど台所には立たなかったんです。今日が初めてみたいなもんですよ」

 照れくさく笑った仁に、澄子もふっと笑った。

「私も、夫が亡くなってから本格的に料理を教えるようになったんです。自分の生活を立て直すために、ね」

 その一言に、仁は少しだけ親近感を抱いた。
 お互い、伴侶を亡くした者同士。
 食事を“ひとりでとるもの”から、“誰かと作って、食べるもの”へと変えた経験があるのだろう。


 昼近く、できあがった筑前煮を皆で囲む。
 仁が作った煮物は、見た目は少し不格好だったが、味はしっかり染みていた。
 一口食べたとき、舌の奥にあたたかい記憶がにじむ。

「美味しいですね。ちゃんと、甘味と醤油のバランスが取れてる」

 澄子にそう言われたとき、仁は心のどこかで、何かがほどける音を聞いた。

 食事を終えたあと、山岸さんが笑顔で言った。

「来週も、来てくださる?」

 その問いに、仁は「はい」と、はっきり答えた。
 答える前に迷いがなかったのは、この部屋に澄子がいるからだと、自分でもすぐに気づいた。


 帰り道、仁はホームセンターに立ち寄った。
 今夜は、炊飯器でご飯を炊いてみようと思ったのだ。
 どうせなら、少し良い米を買おう。
 炊飯器の隣には「高齢者向けの軽量しゃもじ」も並んでいた。手に取ると、軽くて持ちやすい。昔の木べらより、ずっと扱いやすそうだ。

「便利になったもんだな……」

 つぶやいたその声に、どこか弾みが戻っていた。


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