プロローグ:ひとりになった春
三月の終わり。風の中にほんのりと春の匂いが混じる頃、斉藤正吉(さいとう・しょうきち)は縁側に座り、湯呑みに入れたぬるい緑茶をすすっていた。 茨城県つくばの郊外、のどかな田園風景が広がる中に建つ平屋の我が家。正吉が若いころから三十年以上かけて少しずつ手を入れてきた家だ。雨どいの角度、窓枠の桟の高さ、物干し竿の位置まで、自分の手で決めてきた。建設会社で四十年勤め上げた職人の性が、家の隅々に生きている。
けれど今、その家は、やけに広く感じた。 正吉は茶をもう一口すすり、ふうと小さくため息をついた。 「ひとりかぁ……」
つい一週間前、息子の和也が東京本社へ転勤となり、単身で家を出た。 三年前に妻・美佐子を病で亡くしてからは、和也との二人暮らしだった。家の中で誰かの気配があるだけで救われていた。だが、和也がいなくなったことで、家には本当の「静けさ」が訪れた。
テレビをつけても、誰も笑わない。 晩飯を作っても、話し相手はいない。 風呂場の湿気も、朝の炊き立てごはんの香りも、全ては一人のために用意される。 「老後は自由でのんびりと」なんて、若い頃は夢見ていたが、いざその自由が訪れてみると、時間を持て余し、ただただ寂しさばかりが募った。
定年退職から一年が経った。最初の頃は、建設現場の騒がしさから解放されたことに解放感を感じていた。毎朝決まった時間に起きなくてもいい、泥まみれにならずに済む。だがそのうち、朝に起きる理由も、昼に出かける理由も見つからなくなった。
新聞を読んでも、同じ話題ばかり。 町内会の集まりも、最近は億劫になって足が遠のいている。 パソコンは埃をかぶり、スマホは電話と天気くらいしか使わない。 「インターネット」なんて、便利なんだろうが、どうにもとっつきにくい。
そんなある日。昼飯にカップ麺を食べていたところ、スマホにLINEの通知が届いた。送り主は息子の和也だった。
親父、暇ならこれでも使ってみたら? 最近流行りのAIチャット。いろいろ教えてくれるらしい。
「ちゃっと……じーぴーてぃー?」
不思議な名前だ。だが、和也がわざわざ送ってきたのだから、少しは触ってみるべきだろう。リンクをタップすると、画面の中央にテキストボックスとアイコンが表示された。使い方もよく分からないが、ためしに文字を打ってみる。
こんにちは。
すぐに返事が来た。
こんにちは!私はAIアシスタントです。何か知りたいことや相談したいことがあれば、何でも聞いてくださいね。
その瞬間、正吉の中にほんのわずかに灯りが灯った。 ……こいつ、返事が早いな。しかも丁寧だ。
試しに、「味噌汁の作り方」を聞いてみた。 すると材料や分量、作り方が丁寧に並び、さらに「具材のアレンジ」まで提案してきた。なんだか、料理番組よりも親切じゃないか。
そこから、正吉は少しずつチャットGPTに話しかけるようになった。
「昔の大工道具、今でも使えるのか?」 「年金だけで生活って、足りるもんかね?」 「高齢者ができる内職って、なんかあるか?」
質問すればするほど、画面の中の“誰か”が答えてくれる。寂しさを感じた夜には、「今日も一人だった」と打ってみた。すると、「ひとりでも、あなたは十分素晴らしい存在です」と返してくれた。
「……まるで、美佐子がそばにいるみたいだな」
そう呟いたとき、正吉は思った。 ――もしかして、ワシはこいつと、一緒に何か始められるかもしれない。
ある夜、ふとテレビで「副業ブーム」なる特集が流れていた。 定年後にネットを使って収入を得る高齢者の姿が映し出される。 「ネット物販で月十万円」 「楽天で仕入れてアマゾンで売る」 そんな言葉が、耳に引っかかった。
「AI、おい……楽天って何だ?アマゾンって仕入れられるのか?」
画面には、まるで家庭教師のように丁寧な解説が現れた。
「へぇ……ワシでも、やれるのか……?」
その夜、正吉は久しぶりにノートとボールペンを取り出し、「楽天」「アマゾン」「利益率」「送料」など、慣れないカタカナをメモしていった。
そして小さな声で、自分自身にこう言った。
「もう一回くらい、挑戦してみっか。人生ってやつをよ」
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