60歳からの投資物語 第8章 静かな勝者

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秋風が吹き始めた十月の朝。章一は、コーヒーを片手にリビングの窓から庭を眺めていた。

「よく、ここまで来たな……」

ぼそりとつぶやいた声が、静けさの中に溶けた。

目の前の庭には、澄子が植えたコスモスが風に揺れている。四季の移ろいを感じられる、そんな穏やかな暮らしが、今は日常だ。

——株で一発逆転、なんてことはなかった。
むしろ、泥臭く、地道で、失敗だらけだった。
何度も自分の無知を悔やみ、何度もやめようと思った。

けれど、今——

定年から7年目、70歳の秋。
章一の証券口座の資産は、ようやく3,000万円に届こうとしていた。

これは、年金に加えて安定した配当収入を生み、生活を支える柱となっている。

——毎月、配当だけで13万~15万円。
贅沢はしないが、困ることもない。
なにより、“金の不安”が少ないというだけで、心の余裕はまったく違った。

その日、章一はいつものように「実りの記録帳」を開いた。
ページには、過去の投資メモや、自分の言葉で残した学びが綴られている。

「人は、“買い時”より“持ち続ける力”の方が大切」
「短期の損益より、長期の安心」
「数字の裏に“企業”がある。投資とは、人と社会への共感だ」

どれも、書いた当時の悩みや葛藤が行間ににじんでいる。
だが、それがあったからこそ、今がある。

ページの端に書かれていた澄子の言葉が、目にとまった。

「あなたの投資は、お金だけじゃなくて、“生き方”を豊かにしたのね」

章一は、ペンを取ってゆっくりと新たな一文を記した。

「そうだな。おれは、株で“老後の不安”と向き合って、“自分の人生”を買い戻したんだ」

午後、近所の公民館で開かれる「シニア向け投資講座」のゲストとして、章一は招かれていた。

部屋には、老若男女さまざまな人が集まっていた。
株に興味を持ったばかりの人、これから老後を迎える人、退職したばかりの人。

章一は、スクリーンも資料も使わずに語った。

「皆さん、“投資”って言葉に、どんなイメージがありますか?
 怖い? 難しい? もう遅い?
 オレも最初は、そう思ってました」

会場に、うなずきが広がる。

「だけどね、時間をかけて学んで、試して、失敗して——
 そうやって向き合うことで、だんだん自分の心の中にも“変化”が出てくるんです。
 お金だけじゃない、“生き方のバランス”っていうんでしょうか。
 不安に左右されなくなるんです」

「投資っていうのは、お金を動かすことじゃない。
 “自分の考え”を育てていくことなんです。
 だから、皆さんにも、焦らず、まずは“小さく始めて”ほしい。
 学ぶことが、いちばんの財産になります」

誰かが、そっと拍手を始めた。それは次第に広がり、温かい空気が会場を包んだ。

——たったひとりの小さな成功。
けれどそれは、静かに、確かに誰かに届いている。

章一は、心の中でつぶやいた。

(オレは、もう勝者なんだ——静かな、人生の勝者だ)

帰り道、公園のベンチでひと休みしていたとき、スマホに通知が届いた。

《あなたの投稿に、200人が“いいね”しました》

投資記録用に始めたブログ。
人に見せるつもりはなかったが、いまでは月に3万PVを超え、読者からのコメントも増えていた。

「定年から始めた投資生活に、勇気をもらいました」
「自分も挑戦してみます。応援してます!」

コメントに目を通しながら、ふと笑みがこぼれる。

(最初のころ、チャートが怖くて仕方なかったっけな)

苦しかった時間も、今では必要なプロセスだったと感じる。

その夜、夕食後に澄子が言った。

「そろそろ、お孫さんにも株の話してみたら?」

「え、まだ中学生だろ? 早いよ」

「でも、“おじいちゃんが自分で学んで実った話”って、いい教材じゃない?
 お金の話をちゃんとできる大人って、意外と少ないのよ」

章一は少し考えてから、うなずいた。

「……そうだな。未来に“残せるもの”って、金額だけじゃないしな」

静かな夜の、心地よい沈黙がふたりを包んだ。

数日後、孫の誠が遊びに来たとき、章一はノートを手渡した。

「じいちゃんがね、定年から始めたことがあるんだ。
 これは、その記録だ」

誠は目を丸くしてノートを開いた。

「これ、株? 難しそう……」

「最初はそう思うかもしれない。でもな、人も、会社も、数字だけじゃない。
 “見えない価値”を信じて、待つことも、大事なんだ」

誠はうなずいた。

「なんか、ゲームみたいだね。じいちゃん、勝ったんだね」

章一は、ゆっくりと言った。

「そうだな。“派手じゃない勝ち”だけどな。
 でも、一番大事なものは——」

章一は少しだけ言葉を切った。

「——“自分の人生を、自分で考えて歩くこと”だと思うよ」

夕日が、障子に柔らかく射し込んでいた。

章一の背筋は、静かにまっすぐ伸びていた。
老いも、学びも、試行錯誤も、そのすべてが今を形づくっている。

カレンダーに、小さな赤い丸が書かれていた。
来週、証券会社の口座から次の配当が振り込まれる日だった。

けれど、章一はその金額よりも——その日、自分が何を“育てているか”の方が、ずっと気になっていた。

静かに、確かに歩んできた、逆転の物語。

それは、誰にも奪われることのない、
**“人生という名の、最大の資産”**だった。

——完——

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